蛮社は当時の蘭学者・洋学者集団の俗称で、「蛮夷の社」(夷狄=野蛮人=西洋を学ぶ者の会)の略。鳴滝塾出身者を中心とする尚歯会・西洋研究グループで、幕府は彼らの政治批判を警戒、蛮社の獄でグループ全体を弾圧しました。
長英は脱獄後、自分の顔(特に眉間の特徴)を硝酸で焼いて変装したという伝承があります。当時の人相書による追跡を逃れるため、顔の特徴的な部分を意図的に変形した過激な自衛策。事実かどうかは諸説ありますが、当時の彼の追われる立場の苛烈さを象徴。
崋山は田原藩家老で蘭学者・画家、長英の同志。蛮社の獄で同時に捕縛され、崋山は永蟄居(田原で1841年自刃)、長英は永牢。両者とも『戊戌夢物語』『慎機論』など幕府批判書を執筆、共に近代日本の啓蒙先駆者として顕彰されています。
永牢は伝馬町牢屋敷など特定の牢獄で終身監禁、流罪は遠隔地(島・遠国)への送致と監視。両者とも社会的隔離の終身処分ですが、流罪の方が「移動」を伴い、永牢は完全な閉じ込め。長英の場合、永牢は流罪より過酷な「全社会からの隔離」でした。
長英の遺骨は青山の墓地と岩手県奥州市の地蔵寺に分骨。岩手の高野長英記念館は彼の生家に隣接する充実した施設で、蘭学資料・脱獄関連史料・翻訳書原本などが展示されます。墓参の聖地として現代の知識人・歴史愛好家の参拝対象。