不動明王は神様ではなく、**仏教の尊格(明王)**です。大日如来の忿怒の化身として衆生の煩悩・障難を取り除き、悟りへと導く存在です。「神仏習合」の文脈では神と仏が重ねられた時代もありましたが、本来は真言密教の護摩本尊として位置づけられます。
護摩とは古代インドに起源を持つ密教の修法で、堂内の護摩壇(ごまだん)で聖火を焚き、供物を炎に投じながら不動明王に祈願を届けるものです。修行者が唱える真言(陀羅尼)と炎の組み合わせが煩悩を焼き払うと信じられ、成田山新勝寺・川崎大師では毎日一般向けに祈祷が行われています。参拝者は事前に申し込みをすることで護摩堂内に入り、読経と炎を近くで体感できます。
忿怒(ふんぬ)の相——つまり怒りの形相——は、慈悲の別の表現です。穏やかな説法では届かない衆生に対し、大日如来が「どうかこの苦しみから解放されてほしい」という強い願いをもって怒りの姿をとったものです。その目には「どんな状態にある者も見捨てない」という先達の精神が息づいています。
五大明王は真言密教の体系的な守護尊であり、大日如来を囲む五方位の守護を担う忿怒尊(ふんぬそん)の集合体です。一方、七福神は神道・仏教・道教など複数の信仰が習合した福の神々であり、厄除けよりも福徳・長寿・商売繁盛といった世俗的な願いと結びついています。五大明王は護摩修法の中で唱えられる密教の本尊格、七福神は民間信仰における福の象徴という点で、性質が根本的に異なります。
一部の不動明王像は三つの目を持ちます。これは三世(過去・現在・未来)を見通す智慧の目と解釈されます。また右目は太陽・左目は月、額の目は真如(しんにょ、物事の真の姿)を見る目とする説もあります。三目の形式は密教の儀軌(ぎき、仏像造形の規範書)によって異なり、霊場ごとに微妙に姿が違うことも、各地を巡る楽しみの一つです。