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北条義時と承久の乱——二代執権の生涯と鎌倉史跡ガイド
1221年の承久の乱で後鳥羽上皇の院宣に立ち向かい、武家政権の存続を確立した北条義時。二代執権の生涯と思想、義時の墓・法華堂跡・鶴岡八幡宮・寿福寺など鎌倉ゆかりの地を詳しく解説。参拝コース付き。
目次
MOKUJI
北条義時の生涯——初代執権の子から「日本の支配者」へ
承久の乱——日本史の転換点となった幕府対朝廷の決戦
義時ゆかりの鎌倉史跡——参拝すべき7ヶ所
北条義時ゆかりの史跡めぐり——参拝コース提案
よくある質問
北条義時は「武家と公家、どちらが日本を治めるか」という根本問題に答えを出した人物だ。1221年の承久の乱で後鳥羽上皇の院宣に立ち向かい、幕府軍を率いて圧勝することで、武家政権の優位を確立した。義時の墓(やぐら)は今も鎌倉の山懐に静かに眠っている。
北条義時の花押(かおう)— 二代執権として幕府の実権を握った義時の署名
Wikimedia Commons / Public Domain / 丸山可澄 花押藪(1690年)
北条義時の生涯——初代執権の子から「日本の支配者」へ
北条義時は治承元年(1163年)、北条時政の次男として伊豆国に生まれた。父・時政の命で源頼朝の側近として仕え始め、鎌倉幕府の草創期を支えた。
義時はどのようにして権力を握ったか?
元久2年(1205年)、父・時政が継室・牧の方の陰謀に連座して失脚すると、義時が二代執権に就任した。その後、建暦2年(1212年)には和田義盛を滅ぼして侍所別当(軍事長官)の職も兼ね、政所・侍所の両別当を一手に握る最高権力者となった。
義時が直面した最大の危機——承久の乱とは何か?
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発した。これは天皇・上皇が武家政権の「逆賊」討伐を命じるという、当時としては前例のない政変だ。多くの御家人が「朝廷に弓を引けるか」と動揺する中、姉・政子の演説と義時自身の決断が幕府を動かした。幕府軍は京に向けて進軍し、わずか1ヶ月で朝廷軍を打ち破った。
出来事
内容
二代執権就任
1205年
父・時政の失脚後に後継
和田合戦
1213年
和田義盛を討滅し侍所別当も兼任
承久の乱
1221年
後鳥羽上皇の院宣に勝利
義時の死
1224年
62歳で急逝、死因は諸説あり
北条義時の墓(法華堂跡)への参道入口。鎌倉・西御門に位置する国指定史跡
Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0 / Naokijp
承久の乱——日本史の転換点となった幕府対朝廷の決戦
承久の乱は日本史上で最も重要な政治転換点の一つである。
後鳥羽上皇はなぜ義時追討を命じたか?
後鳥羽上皇は武芸・和歌・音楽に通じた多才な君主で、武家政権の台頭を快く思っていなかった。前将軍・実朝暗殺(1219年)を機に幕府が弱体化したと見て、院宣による追討に踏み切った。しかし上皇の目算は完全に外れた。
幕府はなぜ圧勝できたか?
幕府軍の勝因は複数ある。北条政子の演説が御家人の結束を回復させたこと、義時が「院宣があっても幕府の正当性を主張する」という法的論理を確立したこと、そして幕府軍が朝廷の予想をはるかに超える大軍で迅速に進軍したことだ。朝廷軍は数で圧倒され、わずか1ヶ月で決着がついた。
承久の乱の歴史的意義はどこにあるか?
承久の乱の結果、後鳥羽上皇ら3人の上皇が流罪に処され、朝廷の政治的影響力は大幅に低下した。幕府は西国にも「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置して、朝廷を監視・統制した。日本の政治的重心が「朝廷(京都)」から「幕府(鎌倉)」へと明確に移行したのである。
後鳥羽上皇の肖像画(水無瀬神宮蔵)。1221年に義時追討を命じ承久の乱を起こした
Wikimedia Commons / Public Domain / 藤原信実 画(1221年)
義時ゆかりの鎌倉史跡——参拝すべき7ヶ所
北条義時と深く結びついた鎌倉の史跡を紹介する。
義時の墓(やぐら)——二代執権が眠る岩窟墓
義時の墓(やぐら)は鎌倉市西御門の丘陵地にある岩窟墓で、大江広元の墓など有力御家人の墓所が並ぶ一角に位置する。静かな参道を歩いた先に、苔むした石塔が佇んでいる。
法華堂跡(ほっけどうあと)——義時と頼朝ゆかりの聖地
法華堂跡(鎌倉市西御門)は源頼朝・北条義時の持仏堂跡とされ、法要が行われた場所だ。現在は国史跡に指定されており、義時ゆかりの地として欠かせない。
宝戒寺(ほうかいじ)——義時の霊を弔うために創建
宝戒寺(鎌倉市小町)は北条氏の滅亡後、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うために創建した寺で、義時ら歴代執権の霊が祀られている。萩の花が秋の名所として知られる。
鶴岡八幡宮・寿福寺・政子の墓も合わせて参拝
鶴岡八幡宮は義時が幕府の守護神として厚く信仰した神社。寿福寺は義時の姉・政子が創建した禅刹で、政子の墓も境内にある。頼朝の墓(白旗神社)も合わせて巡ることで、幕府初期の人物関係が立体的に理解できる。
スポット
義時との関係
特記事項
義時の墓(やぐら)
義時の埋葬地
国史跡
法華堂跡
義時の持仏堂跡
国史跡
宝戒寺
義時ら北条氏の霊を祀る
秋の萩で有名
鶴岡八幡宮
幕府の総鎮守
承久の乱の演説地
寿福寺
姉・政子の創建
政子・実朝の墓も
政子の墓
義時の姉の墓
寿福寺境内
頼朝の墓
主君・頼朝の墓
白旗神社境内
鶴岡八幡宮の本殿。1219年に三代将軍源実朝が暗殺された鎌倉幕府の守護神社
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0 / Peter Buchmann
北条義時ゆかりの史跡めぐり——参拝コース提案
義時ゆかりの史跡を1日で効率よく巡るルートを紹介する。
推奨コース(西御門→鶴岡八幡宮→北鎌倉)
鎌倉駅から出発→義時の墓(やぐら)法華堂跡(西御門)→頼朝の墓(白旗神社)→鶴岡八幡宮宝戒寺(北条氏霊廟)→北鎌倉へ移動→寿福寺(政子の墓)。所要約4時間。
参拝時のポイント
義時の墓・法華堂跡エリアは鎌倉駅から徒歩約20〜25分で歩いていける
宝戒寺のハギは9月中旬〜10月上旬が最も美しい
寿福寺は午前中の訪問が静かでおすすめ
法華堂跡に立つ白旗神社。源頼朝と北条義時の霊所が隣接するこの地は鎌倉幕府発祥の聖地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0 / Naokijp
よくある質問
北条義時はどのような性格の人物だったか?
史料からは「冷静沈着で論理的、権力闘争にも容赦がない」という人物像が浮かぶ。父・時政の失脚、和田義盛の討滅、承久の乱での決断など、すべて感情よりも幕府の論理を優先した判断だった。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(2022年)では義時の複雑な内面が丁寧に描かれ、改めて注目を集めた。
承久の乱後、後鳥羽上皇はどうなったか?
後鳥羽上皇は承久の乱の敗北後、隠岐国(現・島根県隠岐郡)に流罪となり、そのまま隠岐で崩御(1239年)した。事実上、朝廷が武家政権の支配を認める形となり、以後約150年間(1333年の鎌倉幕府滅亡まで)、幕府が日本の政治の中枢を担い続けた。
北条義時の墓はどこにあるか?
義時の墓(やぐら)は鎌倉市西御門の丘陵地、大江広元の墓などと並ぶ岩窟墓地にある。鎌倉駅から徒歩約20〜25分、鶴岡八幡宮から北東方向に進んだ静かな場所だ。
宝戒寺はなぜ義時ゆかりの寺なのか?
宝戒寺は鎌倉幕府滅亡(1333年)後、後醍醐天皇が北条氏の霊を弔うために創建した寺院。義時をはじめとする歴代執権の霊が祀られており、北条氏の「鎮魂の場」として機能している。
法華堂跡(北条義時の墓)は何が残っているか?
法華堂跡は現在、国史跡「頼朝・義時の墓所」として指定・整備されている。かつて頼朝の法華堂(持仏堂)が建立されていた場所で、義時もここに持仏堂を建てたとされる。現在は石碑と解説板が設置された史跡公園となっており、幕府成立期の精神的拠点として参拝できる。
最終更新: 2026年4月25日
── 了 ──
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