英勝寺の北塀外、北鎌倉方向へ続く小径沿いのやぐら(岩窟墓)に眠る鎌倉中期の女流歌人・阿仏尼(1222頃〜1283)。藤原定家の息子・為家の側室となり、歌人・冷泉為相を産んだ。勅撰集への入集48首を誇る歌人でもあり、若年期の恋愛体験を綴った『うたたね』でも知られる。弘安2年(1279年)、約60歳の老齢をものともせず単身京都を出立し、播磨国細川荘(現・兵庫県三木市)の相続をめぐる訴訟を起こすべく鎌倉へ向かった。極楽寺の月影ヶ谷に仮住まいしながら約4年間幕府への訴訟を続けたが、弘安6年(1283年)に判決を見ぬまま鎌倉で没した。この旅路と鎌倉滞在を綴った『十六夜日記』は『海道記』『東関紀行』と並ぶ中世三大紀行文の一つ。卵塔の台座には「阿佛」の刻銘があり、古くからその墓所と伝えられる。横須賀線を挟んだ向かいの浄光明寺には息子・為相の墓が残り、母子が今も向き合うように眠っている。
阿仏尼(1222頃〜1283)は鎌倉中期の女流歌人。藤原定家の子・為家の側室となり、冷泉為相を産んだ。勅撰集への入集は48首にのぼり、若年期を綴った『うたたね』も残す。為家の没後、播磨国細川荘の相続をめぐり正妻の子・二条為氏と争いが生じ、弘安2年(1279)10月16日、約60歳の阿仏尼は単身京都を出立し13日後に鎌倉へ到達した。極楽寺の月影ヶ谷に居を定め、幕府への訴訟を続けながら約4年を過ごしたが、弘安6年(1283)判決を見ることなく鎌倉で没した。旅路と鎌倉滞在を記した『十六夜日記』は『海道記』『東関紀行』と並ぶ中世三大紀行文の一つとして文学史に刻まれる(十六夜とは出発した10月16日の夜…