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岐阜城
岐阜城
岐阜県
創建
1201
種別
アクセス
JR岐阜駅からバス15分+ロープウェー
岐阜県岐阜市金華山天守閣18
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基本情報
創建 1201
825年目
開基・創建者
二階堂行政(築城)/ 織田信長(岐阜城として)
概要
金華山山頂(標高329m)に聳える天下統一の拠点。永禄10年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻略して「岐阜城」と改名し「天下布武」の印を使い始めた。長良川と濃尾平野を一望できる絶景が広がり、信長の居城として約10年間天下人への道を切り開いた戦略の城。現在の天守は昭和31年(1956年)復元。ロープウェーで山頂へ上ることができ、年間多くの観光客が訪れる岐阜のシンボルとして、戦国時代の夢と野望を体感できる岐阜県を代表する名城遺跡のひとつである。
由緒
岐阜城の前身は、建仁元年(1201年)に二階堂行政が築いたと伝わる「稲葉山城」とされる。その後、斎藤氏が美濃国の拠点として整備し、斎藤道三の代には難攻不落の山城として知られるようになった。永禄10年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻略・接収し、城と城下町を「岐阜」と改名。「天下布武」の印を用い始め、天下統一への足掛かりとしてこの城を約10年間の居城とした。天正4年(1576年)、信長が安土城の築城に着手すると岐阜城は嫡男・信忠に譲られた。関ヶ原の戦い前哨戦にあたる慶長5年(1600年)の岐阜城の戦いで、信長の孫・織田秀信が東軍に敗れ落城。翌年、徳川家康の命により廃城となった。明治以降は廃墟…
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関連する歴史的事件
1

1568
信長の天下布武
1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、「天下布武」の印章を用いて全国統一への意志を宣言した。信長は尾張から出発し、美濃(稲葉山城攻略・1567年)を平定した後、将軍の権威を借りて京都を制圧した。以後、浅井・朝倉氏との戦い、比叡山延暦寺の焼打(1571年)、武田氏との対立、一向一揆との長期戦など、次々と障害を排除しながら天下統一へと驀進した。楽市楽座・関所廃止などの経済革新も進め、中世的な秩序を打ち壊す革命的な施政を展開した。
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徳川家康とのつながり
関ヶ原の戦い前哨戦となった慶長5年(1600年)の岐阜城の戦いで、家康率いる東軍が織田秀信(信長の孫)を破り落城させた。翌年、天下を握った家康の命によって岐阜城は廃城となり、信長が「天下布武」の拠点とした城は歴史の表舞台から消えた。
豊臣秀吉とのつながり
美濃攻略で稲葉山城(後の岐阜城)攻略の立役者となった。農民の息子から獣道の情報を得て、月明かりの中、精鋭部隊で崖を登り城内に潜入。夜明け前に火を放ち、槍に瓢箪をつけて信長に成功を知らせた。「千成瓢箪」の伝説はここから始まった。
斎藤道三とのつながり
斎藤道三はこの稲葉山城を本拠として美濃国を掌握した「美濃の蝮」。城を大規模に整備し、娘の帰蝶(濃姫)を信長に嫁がせた。道三と信長は城下の正徳寺で会見し、後継者としての信長を高く評価したと伝わる。
織田信長とのつながり
永禄10年(1567年)、信長は稲葉山城を攻略し「岐阜城」と改名。「天下布武」の印を用い始め、ここを天下統一への拠点とした。岐阜の地名も信長が命名したもので、中国の「岐山」と「曲阜」に由来する。
明智光秀とのつながり
光秀は美濃の土岐氏ゆかりの地の出身とされ、若年期に斎藤道三・義龍のもとで仕えたとも伝わる。後に信長に仕えて岐阜城を拠点とした軍事行動にも参加し、信長の美濃支配を支えた重臣の一人となった。

ゆかりの人物
5

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