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本能寺
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本能寺
京都府
創建
1415
種別
寺院
アクセス
地下鉄東西線「京都市役所前」駅から徒歩3分
京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
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基本情報
寺院
創建 1415
611年目
宗派
法華宗本門流

お祭り・行事
1

6月
2
信長忌
本能寺の変で散った織田信長の命日法要。信長公廟前で茶会も催される。
概要
本能寺は京都市中京区に位置する法華宗本門流の大本山であり、天正10年(1582年)に織田信長が明智光秀の謀叛によって討たれた「本能寺の変」の舞台として日本史に刻まれた寺院である。現在の本能寺は元の場所から移転した地に建ち、境内には信長の供養塔と廟所が設けられており、その歴史的重みを今に伝えている。本能寺の創建は応永22年(1415年)に遡り、日隆上人によって開かれた法華宗の道場として発展した。信長は京都滞在の折に本能寺を宿所として用いており、本能寺の変の夜もここに宿泊していたとされる。寺院の境内には刀剣や信長に関連する宝物を収める宝物館があり、歴史ファンが多く訪れる。本能寺は近世以降も再建・移転を経ながら現在地に落ち着き、今日も法華宗本門流の総本山として宗教活動を続けている。
由緒
応永22年(1415年)、日隆によって油小路高辻に「本應寺」として創建されたのが起源。後に「本能寺」と改号し、法華宗の重要な拠点として発展した。天文5年(1536年)の天文法華の乱で比叡山延暦寺の僧兵により焼き討ちされ堂宇を失い、一山は堺の顕本寺に避難した。天文14年(1545年)に日承上人が入寺して油小路蛸薬師付近に中興、末寺は畿内から種子島まで広がり本門流教団の中心となった。天正10年(1582年)6月2日未明、織田信長が宿泊中に明智光秀の軍勢約13000に急襲され、信長は「是非もなし」と言い放って奮戦の末に自刃、堂宇は炎上した。これが「本能寺の変」で、天下統一目前の49歳の信長の劇的最期…
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弥助とのつながり
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際、信長に仕えていたアフリカ出身の侍・弥助は本能寺にて信長のそばで明智光秀軍と戦った。信長が自刃した後も弥助は刀を振るって奮戦したが、最終的に光秀軍に捕らえられた。光秀は弥助を殺さず南蛮寺に送ったとされる。外国人でありながら信長の側近として最期まで忠義を尽くした弥助の姿は、本能寺の変の知られざる一面を伝えている。
ルイス・フロイスとのつながり
ルイス・フロイスは永禄12年(1569年)に京都で織田信長と初めて会見し、信長からキリスト教布教の許可を得た。フロイスは信長を「日本で最も強力な領主」と記録し、信長もまたフロイスら宣教師を保護した。本能寺はフロイスが活動した京都の中心地に位置し、フロイスの著書「日本史」には信長と本能寺に関する貴重な記録が残されている。
明智光秀とのつながり
天正10年(1582年)6月2日、丹波亀山を出発した光秀は「敵は本能寺にあり」と号令し、主君・信長が宿泊する本能寺を急襲した。謀反の動機は諸説あるが、この一撃で天下の情勢は激変した。光秀はわずか13日後に山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、敗走中に命を落とした。
織田信長とのつながり
天正10年(1582年)6月2日未明、信長は少数の供回りとともに本能寺に宿泊中、明智光秀の突然の謀反に遭い、四方を囲まれた。「是非もなし」と言い放ち奮戦したが衆寡敵せず、寺に火を放って自刃したとされる。天下統一目前にして49歳で斃れた。

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