承久の乱の戦後処理で、後鳥羽院(隠岐)・順徳院(佐渡)・土御門院(土佐→阿波)の三人の上皇が同時に流された日本史上空前の事態。武家政権が天皇の権威を完全に屈服させた歴史的瞬間で、これ以後の朝幕関係を決定づけました。
後鳥羽院が編纂を主導した1205年成立の勅撰和歌集。藤原定家・家隆らが撰者となり、約2000首を収める。技巧的・幽玄な歌風で平安和歌の頂点とされ、後の連歌・俳句にも大きな影響を与えました。後鳥羽院自身の歌も多数選ばれています。
島根県海士町、隠岐諸島の中ノ島にあります。後鳥羽院の御火葬塚に近く、配流19年を過ごした源福寺跡地に1939年(没後700年)に造営されました。隠岐は本土からフェリーで約3時間の離島で、現代でも到達困難。
後鳥羽院は和歌を最も愛し主導した天皇として「歌帝(かてい)」と呼ばれます。即位前から和歌に親しみ、譲位後は院政の傍ら歌壇を主宰、配流後も詠み続けた一生を文学に捧げた天皇でした。後白河院の今様、後鳥羽院の和歌、と並称されます。
後鳥羽院が自ら鍛えた刀「菊御作」は、複数振が現存し国宝・重要文化財に指定されています。京都国立博物館・東京国立博物館などで時折公開。皇室の御剣として伝わるものもあり、後鳥羽院の刀剣鍛冶の腕前を伝える貴重な遺品です。