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後鳥羽院完全ガイド——隠岐に終わった歌帝の19年と承久の乱
承久の乱(1221年)で鎌倉幕府に敗れ隠岐に流された後鳥羽院(1180-1239)。歌人として『新古今和歌集』を主導し武芸にも秀でた万能の帝王が、19年の流刑地で詠み続けた歌。源実朝との交流から承久の乱、隠岐神社まで完全解説。
目次
MOKUJI
万能の帝王——歌・武芸・刀剣
源実朝との和歌交流と運命の転換
承久の乱——一か月で終わった天皇の挑戦
隠岐の19年——『遠島御百首』
京への執念と「顕徳院→後鳥羽院」改諡
訪れたい場所
ゆかりのスポット一覧
よくある質問
結論から言うと、後鳥羽院(ごとばいん、1180-1239)は治承四年(1180年)生まれの第82代天皇で、歌人として『新古今和歌集』編纂を主導し武芸・刀剣鍛冶にも秀でた万能の帝王だが、承久3年(1221年)の承久の乱で鎌倉幕府に敗れ隠岐へ配流、19年の流刑地で死去した「歌帝」の悲劇の主人公である。源実朝暗殺(1219年)後の北条義時との対立が承久の乱を招き、敗北で日本史上空前の「三上皇同時配流」(後鳥羽院・順徳院・土御門院)が実現。隠岐の島で詠んだ『遠島御百首』は流人歌の白眉。本記事では万能の帝王、源実朝との交流、承久の乱、隠岐の19年、死後の怨霊伝説までを完全解説する。
万能の帝王——歌・武芸・刀剣
4歳で即位、19歳で院政開始
後鳥羽院は治承四年(1180年)、高倉天皇の第四皇子として生まれた。四歳で即位、十九歳で土御門天皇に譲位して院政を始めた。和歌、蹴鞠、相撲、刀剣鍛冶、水練——あらゆる芸能・武芸に秀で、自ら刀を打つことで「菊御作(きくのごさく)」と呼ばれる名刀を残した。
『新古今和歌集』の編纂
『新古今和歌集』(1205年)の編纂を主導し、藤原定家・家隆ら当代一流の歌人を集めた歌壇を主宰。後鳥羽院サロンは、平安以来の和歌の伝統を頂点に押し上げた、王朝文学の最後の輝きだった。
源実朝との和歌交流と運命の転換
鎌倉と京の文化的橋渡し
後鳥羽院は、鎌倉幕府の権威を朝廷主導で再編しようとした。鎌倉幕府三代将軍・源実朝とは和歌を通じて深く交流し、彼を高位に取り立てることで朝廷側に取り込もうとした。実朝は『金槐和歌集』を編んだ歌人将軍で、後鳥羽院との文学的共鳴があった。
1219年の実朝暗殺と関係悪化
ところが建保七年(1219年)、実朝は鶴岡八幡宮で暗殺された。後鳥羽院は次期将軍として自分の皇子を鎌倉に下向させることを拒み、関係は急激に悪化した。北条氏が握る鎌倉幕府への不信が、決定的な対立へと向かう。
承久の乱——一か月で終わった天皇の挑戦
1221年5月の挙兵
承久三年(1221年)五月、後鳥羽院は北条義時追討の院宣を発し、挙兵した。だが鎌倉幕府は北条政子の演説で結束を固め、十九万の大軍を上洛させた。京方は呆気なく敗れ、わずか一か月で乱は終結した。
三上皇同時配流の前代未聞
後鳥羽院、順徳院、土御門院の三上皇が配流された。後鳥羽院は隠岐へ。順徳院は佐渡へ。土御門院は自ら望んで土佐(後に阿波)へ。三上皇同時配流という、日本史上空前の事態である。武家政権が天皇の権威を実力で打ち破った歴史的瞬間。
隠岐の19年——『遠島御百首』
海士郡苅田郷への幽閉
後鳥羽院が流された隠岐は、島根県の沖合の離島群。彼は隠岐の海士郡苅田郷(現在の海士町)の源福寺(現在の隠岐神社の地)に幽閉された。源福寺の地は、かつて小野篁が流された地でもある。
流人歌の白眉
院は隠岐で和歌を詠み続けた。『遠島御百首(えんとうごひゃくしゅ)』など、隠岐期の歌集には、京への思慕、失われた栄華への嘆き、流刑の地での日常が、痛切に詠まれている。
われこそは新島守よ隠岐の海の あらき波風心して吹け
(私こそが新しい島守だ、隠岐の海の荒い波風よ、私に気を遣って吹け)流刑地に来ても、なお帝王としての矜持を保ったこの歌は、彼の生涯を象徴している。
京への執念と「顕徳院→後鳥羽院」改諡
19年間の帰京願い
後鳥羽院は十九年間、京に戻ることを願い続けた。だが赦免はついに来なかった。延応元年(1239年)二月二十二日、隠岐の地で六十歳の生涯を閉じた。
怨霊への恐怖と諡変更
死に際し、院は怨念の言葉を残したと伝えられる。「もし京の都の方に向かって我が霊が動くなら、それは怨霊である」——崇徳院に並ぶ強烈な遺言である。院の死後、京では災厄が続いた。朝廷は怨霊鎮魂のため、後鳥羽院に「顕徳院(けんとくいん)」の諡を贈ったが、後にこれが祟りを増したとして「後鳥羽院」に変更されたという、不気味な経緯まで残る。崇徳院に次ぐ怨霊と恐れられた元天皇である。
訪れたい場所
隠岐神社(島根県海士町)——後鳥羽院を祀る神社、配流地の中心
後鳥羽院御火葬塚(島根県海士町)——院の火葬塚と伝わる
大原・後鳥羽天皇陵(京都市左京区)——京に分骨された御陵
水無瀬神宮(大阪府島本町)——院の離宮跡、生前のもっとも愛した地
ゆかりのスポット一覧
隠岐神社(後鳥羽院主祭神)
関連人物:源実朝後鳥羽院
よくある質問
「三上皇同時配流」とは?
承久の乱の戦後処理で、後鳥羽院(隠岐)・順徳院(佐渡)・土御門院(土佐→阿波)の三人の上皇が同時に流された日本史上空前の事態。武家政権が天皇の権威を完全に屈服させた歴史的瞬間で、これ以後の朝幕関係を決定づけました。
『新古今和歌集』とは?
後鳥羽院が編纂を主導した1205年成立の勅撰和歌集。藤原定家・家隆らが撰者となり、約2000首を収める。技巧的・幽玄な歌風で平安和歌の頂点とされ、後の連歌・俳句にも大きな影響を与えました。後鳥羽院自身の歌も多数選ばれています。
隠岐神社の場所は?
島根県海士町、隠岐諸島の中ノ島にあります。後鳥羽院の御火葬塚に近く、配流19年を過ごした源福寺跡地に1939年(没後700年)に造営されました。隠岐は本土からフェリーで約3時間の離島で、現代でも到達困難。
「歌帝」の呼び名は?
後鳥羽院は和歌を最も愛し主導した天皇として「歌帝(かてい)」と呼ばれます。即位前から和歌に親しみ、譲位後は院政の傍ら歌壇を主宰、配流後も詠み続けた一生を文学に捧げた天皇でした。後白河院の今様、後鳥羽院の和歌、と並称されます。
「菊御作」の刀は現存?
後鳥羽院が自ら鍛えた刀「菊御作」は、複数振が現存し国宝・重要文化財に指定されています。京都国立博物館・東京国立博物館などで時折公開。皇室の御剣として伝わるものもあり、後鳥羽院の刀剣鍛冶の腕前を伝える貴重な遺品です。
最終更新: 2026年5月2日
後鳥羽院肖像——『新古今和歌集』を主導した万能の歌帝
Wikimedia Commons / Public Domain
島根県・隠岐神社——後鳥羽院を祀る配流地中心の神社
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
『新古今和歌集』——後鳥羽院主導の1205年勅撰集、平安和歌の頂点
Wikimedia Commons / Public Domain
承久の乱——1221年、後鳥羽院挙兵から一か月で京方敗北
Wikimedia Commons / Public Domain
隠岐諸島——後鳥羽院が19年を過ごし詠み続けた最期の地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
── 了 ──
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1. 隠岐神社
承久の乱で配流された後鳥羽上皇が19年を過ごした隠岐の地に立つ神社
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