複合要因。①幕府末期で警戒が緩んでいた、②隠岐の地元有力者・名和長年が協力、③小舟で本土に渡る短距離(隠岐→出雲約50km)、④脱出後すぐ船上山に拠点を確保。先祖後鳥羽院時代と異なり、武士層に幕府への不満が蓄積していた点が決定的でした。
公家偏重で武士の恩賞が不十分、土地問題の処理が混乱、急進的な天皇親政が現実離れ、などの理由から武士の支持を失いました。3年で足利尊氏が離反、北朝(京)・南朝(吉野)の60年に及ぶ南北朝時代へ突入します。
長らく議論されましたが、明治政府は1911年に南朝(後醍醐系)を正統と決定。現在の歴史学では「南北両朝並立期」として中立的に扱う傾向。後醍醐は明治期の天皇親政・万世一系イデオロギーで国民的英雄として再評価されました。
奈良県吉野町の如意輪寺裏手に「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」が後醍醐天皇陵として宮内庁管轄。北を向いて葬られ、遺言「魂魄は常に北闕を望まん」を物理的に実現した特異な御陵です。吉野山と一体の聖地として今も参拝者が絶えません。
伝承では別府(島後)→海士(中ノ島)→出雲国千酌(現松江市美保関町)→伯耆国(現鳥取県)→船上山。隠岐から本土への渡海後、山岳要害の船上山で武装を整え、約3か月で全国挙兵を呼びかけて鎌倉幕府を倒す驚異のスピードを実現しました。