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後醍醐天皇完全ガイド——隠岐から脱出して鎌倉幕府を滅ぼした天皇
元弘2年(1332年)隠岐に流された後醍醐天皇(1288-1339)が、わずか1年で脱出して鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を始めた日本史最ダイナミックな逆転劇。船上山・吉野・南北朝対立まで、流罪から復権の軌跡を完全解説。
目次
MOKUJI
倒幕への執念——正中の変・元弘の変
隠岐配流——名和長年との運命の出会い
隠岐脱出——日本史最大の逆転劇
鎌倉幕府滅亡——わずか3か月
建武の新政と南北朝の分立
訪れたい場所
ゆかりのスポット一覧
よくある質問
結論から言うと、後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288-1339)は元弘2年(1332年)に倒幕計画(元弘の変)の失敗で隠岐に流されたが、わずか1年で脱出して挙兵し、3か月で鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を始めた日本史上最もダイナミックな流人天皇である。先祖後鳥羽院が同じ隠岐に流されて19年で死んだのとは対照的に、流刑地から舞い戻って権力を奪還した稀有な例。だが武士の不満から足利尊氏に裏切られ吉野に逃れて南朝を立て、52歳で吉野山中で没した波乱の生涯。本記事では倒幕への執念、隠岐配流、脱出、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、南北朝対立までを完全解説する。
倒幕への執念——正中の変・元弘の変
1318年・大覚寺統からの即位
後醍醐天皇は、大覚寺統(亀山天皇の系統)の天皇として正中元年(1324年)に院政から親政に移行。鎌倉幕府の北条氏支配を打倒し、天皇親政を取り戻そうとした。
二度の倒幕計画失敗
正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)——二度の倒幕計画は、いずれも事前に発覚して失敗した。元弘二年(1332年)、ついに後醍醐は捕えられ、隠岐への配流が決定した。かつて先祖・後鳥羽天皇が流された同じ島へ——倒幕に失敗した天皇は、再び隠岐の地へ送られた。
隠岐配流——名和長年との運命の出会い
別府御所への幽閉
後醍醐は隠岐の島後(どうご)、別府(現在の島根県隠岐の島町)の御所に幽閉された。鎌倉幕府は、後鳥羽の例に倣って、後醍醐も生涯隠岐に閉じ込めるつもりだった。
脱出計画の準備
ところが後醍醐は、流刑地でも倒幕の志を捨てなかった。彼は周囲の警戒の隙を突き、密かに脱出計画を練った。隠岐の地元有力者・名和長年(なわながとし)らが、彼の脱出に協力したと伝えられる。
隠岐脱出——日本史最大の逆転劇
1333年閏2月の脱出
元弘三年(1333年)閏二月、後醍醐は隠岐から脱出した。小舟で出雲国へ渡り、伯耆国船上山(ほうきのくにせんじょうさん、鳥取県琴浦町)に立てこもった。名和長年が彼を迎え、各地の武士に倒幕への決起を呼びかけた。
全国への挙兵呼びかけ
隠岐から脱出した天皇——この事実は、当時の人々に衝撃を与えた。源頼朝以来、鎌倉幕府の権威は揺るぎないものに見えていた。だが流刑地から舞い戻った天皇が、各地の武士に倒幕を呼びかけている——この事態は、幕府の終わりが近いことを示していた。
鎌倉幕府滅亡——わずか3か月
楠木正成・新田義貞・足利高氏
後醍醐の呼びかけに応じて、各地の武士が立った。楠木正成は河内・千早城で幕府軍を翻弄。新田義貞は鎌倉に攻め込み、北条高時以下を東勝寺で自害させた。足利高氏(尊氏)は六波羅探題を攻め落とした。
1333年5月の東勝寺自害
元弘三年(1333年)五月、鎌倉幕府は滅亡した。後醍醐の脱出からわずか三か月の出来事だった。流人だった天皇が、一気に幕府を倒した——日本史の急展開である。
建武の新政と南北朝の分立
1333年6月の京帰還
後醍醐は京に戻り、建武の新政を始めた(1333年)。だが彼の政治は、武士たちの不満を招いた。建武三年(1336年)、足利尊氏が後醍醐に反旗を翻し、京を制圧。後醍醐は吉野(奈良県)に逃れた——南北朝時代の始まりである。
1339年・吉野での死去
吉野の山中で南朝を主宰しながら、後醍醐は北朝(京の足利政権)との対立を続けた。延元四年(1339年)、吉野で五十二年の生涯を閉じた。死に際し、彼は「玉骨は南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕(ほっけつ、京の宮中)を望まん」と遺言した。死してなお京を望む執念は、隠岐脱出を実現させた彼の精神性そのものだった。
訪れたい場所
黒木御所跡(島根県隠岐の島町)——隠岐配流時の御所跡
船上山(鳥取県琴浦町)——後醍醐が脱出後に立てこもった地
吉野・如意輪寺(奈良県吉野町)——南朝の本拠、後醍醐終焉の地
隠岐神社(島根県海士町)——後鳥羽院ゆかり、後醍醐の脱出に関係深い隠岐の中心
ゆかりのスポット一覧
隠岐神社(隠岐配流地中心)
如意輪寺(吉野・南朝の本拠)
関連人物:後醍醐天皇後鳥羽院足利尊氏楠木正成新田義貞
よくある質問
後醍醐の脱出はなぜ成功した?
複合要因。①幕府末期で警戒が緩んでいた、②隠岐の地元有力者・名和長年が協力、③小舟で本土に渡る短距離(隠岐→出雲約50km)、④脱出後すぐ船上山に拠点を確保。先祖後鳥羽院時代と異なり、武士層に幕府への不満が蓄積していた点が決定的でした。
建武の新政はなぜ失敗した?
公家偏重で武士の恩賞が不十分、土地問題の処理が混乱、急進的な天皇親政が現実離れ、などの理由から武士の支持を失いました。3年で足利尊氏が離反、北朝(京)・南朝(吉野)の60年に及ぶ南北朝時代へ突入します。
南朝・北朝のどちらが正統?
長らく議論されましたが、明治政府は1911年に南朝(後醍醐系)を正統と決定。現在の歴史学では「南北両朝並立期」として中立的に扱う傾向。後醍醐は明治期の天皇親政・万世一系イデオロギーで国民的英雄として再評価されました。
吉野の御陵は?
奈良県吉野町の如意輪寺裏手に「塔尾陵(とうのおのみささぎ)」が後醍醐天皇陵として宮内庁管轄。北を向いて葬られ、遺言「魂魄は常に北闕を望まん」を物理的に実現した特異な御陵です。吉野山と一体の聖地として今も参拝者が絶えません。
隠岐脱出の航路は?
伝承では別府(島後)→海士(中ノ島)→出雲国千酌(現松江市美保関町)→伯耆国(現鳥取県)→船上山。隠岐から本土への渡海後、山岳要害の船上山で武装を整え、約3か月で全国挙兵を呼びかけて鎌倉幕府を倒す驚異のスピードを実現しました。
最終更新: 2026年5月2日
後醍醐天皇肖像——隠岐から脱出して鎌倉幕府を滅ぼした天皇
Wikimedia Commons / Public Domain
伯耆・船上山——脱出後に後醍醐が立てこもった山岳要害
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
吉野・如意輪寺——南朝の本拠、後醍醐52歳での終焉の地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
鎌倉・東勝寺跡——1333年新田義貞攻撃で北条高時自害の地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
隠岐——後醍醐が1年で脱出した、後鳥羽院と同じ流刑地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
── 了 ──
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