「ももしき」は宮中・皇居の意。「忍ぶ草」(シノブ)を「忍ぶ」(過去を恋慕する)とかける掛詞。「(かつて自分が住んだ)宮中の古い軒端にしのぶ草が生えるほど、時が経った今でもなお思い余って耐えがたいほどに過ぎし日の栄華が偲ばれる」——百人一首最後の一首として、王朝の終焉を象徴する歌。
新潟県佐渡市真野(旧真野町)にある宮内庁管轄の御陵。佐渡市の中心部から車で約20分。順徳院21年の流刑と絶食死の地に近く、現在も静かに祀られています。御陵への参道は質素で、流人天皇の最期にふさわしい雰囲気。
順徳は後鳥羽院の第三皇子で、最も父の信頼を得た子。父の倒幕計画に積極関与し、譲位して挙兵に備えるほど積極的でした。隠岐(後鳥羽)と佐渡(順徳)に父子で流される歴史的悲劇は、武家政権による天皇家の屈服を象徴します。
順徳の系統は皇統から排除されました。1242年四条天皇早世時、順徳の子・忠成王の即位を望む声がありましたが、幕府は順徳の兄・土御門院系統を選び後嵯峨天皇を即位。これが順徳絶食死の直接的引き金となりました。
順徳が著した宮廷儀礼の総合解説書。元久2年(1219年)頃の作で、平安以来の有職故実を体系的に記述。後世まで「天皇制度の最高権威書」として参照されました。流人天皇でありながら、こうした文化的金字塔を残した点は、彼の知性と教養の高さを物語ります。