神武寺を語るとき、欠かせないのが源頼朝と北条政子のゆかりである。鎌倉幕府の正史的記録である**『吾妻鏡』**には、頼朝が政子の安産を祈願して神武寺に参詣した記録が残されている。
境内の案内板(逗子市教育委員会、2008年設置)にも、『吾妻鏡』に源頼朝が北条政子の安産祈願に参詣した記録があること、さらに三代将軍・源実朝が建保6年(1218年)に岩殿寺とあわせて神武寺に参詣したことが明記されている。
伊豆に流されていた頼朝と政子が結ばれたのは治承元年(1177年)ごろのことである。二人の婚姻は政子の父・北条時政が当初反対したとも伝わるが、政子は父の意に反して頼朝のもとへ走り、その強い意志で結ばれた。
彼らにとって子の誕生は、単なる私的な慶事ではなかった。源氏の棟梁として武家政権を打ち立てた頼朝にとって、後継者の誕生は幕府の存続そのものを意味した。山深い神武寺をわざわざ選んで祈願に訪れたのは、薬師如来の病気平癒・安産の霊験が広く知れ渡っていたためとされる。東国武士団のリーダーが深山の古刹に詣でた事実は、神武寺の霊場としての格の高さを物語っている。
頼朝は建久10年(1199年)に急逝した。その後の政子は「尼将軍」として幕府を支え続けた。晩年の政子は鎌倉に長楽寺(後の安養院)を建立し、嘉禄元年(1225年)にその地で没してそこに眠る。
安養院は現在も鎌倉市大町に法灯を継ぎ、政子ゆかりの寺として多くの参拝者が訪れる。神武寺で頼朝が祈った安産の願い、そして政子が晩年に自ら建てた寺 — 二つのゆかりの地を巡ることで、波乱の生涯を生き抜いた夫婦の物語が重なり合って見えてくる。