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牛の角に松明を!義仲の「火牛の計」で平家大軍が総崩れ
1183年の倶利伽羅峠の戦いで、木曾義仲は牛の角に松明を括りつけて平家の大軍に突進させる「火牛の計」を使ったという伝説がある。約10万の平家軍を約5万の義仲軍が撃破し、義仲は一躍全国にその名を轟かせた。この伝説的な奇策の真偽と、義仲の戦いを解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
1183年・倶利伽羅峠の戦い
義仲の作戦
「火牛の計」は本当にあったのか
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
源頼朝肖像——義仲の従兄弟。倶利伽羅峠の大勝後、義仲は頼朝と対立し最終的に討たれた
Wikimedia Commons / Public Domain
「牛の角に火をつけて敵に向かわせる」。
これが「火牛の計(かぎゅうのけい)」です。中国の古典(戦国策)にも出てくる策略で、木曾義仲がこれを使ったという伝説があります。
1183年・倶利伽羅峠の戦い
1183年5月、石川県と富山県の県境・倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、平家軍と木曾義仲軍が対峙しました。
平家軍は約10万(誇張もあるが大軍だったことは確か)、義仲軍は約5万と言われています。数の上では平家が有利でした。
源氏の兜——義仲も源氏の武将として平家と戦った。倶利伽羅峠は源平合戦の転換点となった
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
義仲の作戦
義仲はこう考えました。「正面から戦っては負ける。夜間に奇襲しよう」。
作戦の細部については史料によって異なりますが、伝説では「牛の角に松明を括りつけ、平家の大軍の中に突進させた」とされています。
暗闇の中、炎を頭につけた牛の群れが突進してくる——敵軍は恐慌状態に陥ったでしょう。さらに義仲軍の兵士たちが背後から攻撃を仕掛けました。
平家大軍の敗走
平家の大軍は峠の険しい地形も相まって壊滅的な打撃を受け、多くの兵士が峠から転落・逃走しました。
この一戦で義仲の名は全国に轟きました。その後、義仲軍は京都まで進軍し、平家を都から追い払いました。
「火牛の計」は本当にあったのか
寿福寺(鎌倉)——源氏が勝利した後の鎌倉文化を象徴する寺院。義仲の勝利が源氏の勝利への序章となった
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
歴史家の間では、「火牛の計」の真偽には議論があります。
「倶利伽羅峠の戦い」は史実ですし、義仲が大勝利を収めたことも事実です。しかし「牛に松明をつけた」という詳細については、後世に書かれた軍記物語(源平盛衰記など)に出てくる話で、確実な証拠はありません。
それでも「火牛の計」は義仲の戦いぶりの象徴として語り継がれ、現在も石川県・富山県の観光名所として倶利伽羅峠が整備されています。
ゆかりの地を訪ねよう
倶利伽羅峠(石川県・富山県境)には史跡が残っており、現在も観光スポットとして整備されています。
木曾義仲のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
木曾義仲ってどんな人?
源頼朝の従兄弟にあたる人物で、木曾(長野県)を本拠地とした武将です。平家を都から追い払いましたが、その後の振る舞いが粗暴として朝廷から嫌われ、頼朝が派遣した義経・範頼によって討たれました。
「火牛の計」の元ネタは中国の故事なの?
はい。中国の戦国時代(紀元前)に田単という武将が使ったとされる策略が有名で、義仲の話はそれにヒントを得た可能性があります。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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木曾義仲
旭将軍
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