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頼朝の挙兵を断った武将の子孫——新田氏の祖・義重とは何者か
新田義貞の祖先・新田義重は、源頼朝が平家打倒のために挙兵した時に協力を断った武将。その決断が新田氏の運命を決め、150年後に子孫の義貞が鎌倉幕府を倒すという歴史の逆転劇につながった。新田氏の複雑な歴史を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
頼朝の挙兵と義重の「不参加」
それでも名門として存続した新田氏
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
新田義重(伝)——鎌倉幕府への参加を断った新田氏の祖。この選択が150年後に子孫義貞による幕府打倒へとつながる
Wikimedia Commons / Public Domain
「もし先祖が別の選択をしていたら?」という問いは歴史の面白さの一つです。
新田義貞の先祖・**新田義重(にった よししげ)**は、1180年に源頼朝が平家打倒のために挙兵した時、「参加しない」という選択をしました。
この選択が新田氏の運命を大きく変えました。
頼朝の挙兵と義重の「不参加」
1180年、源頼朝は伊豆国(静岡県)で挙兵し、平家打倒を訴えました。関東の有力武士たちに「共に戦おう」と呼びかけます。
同じ源氏の一族だった義重も声をかけられましたが、参加を見送りました。理由は諸説あります。「平家との関係を大切にしたかった」「慎重な性格だった」など。
結果的に頼朝は平家を倒し、1192年に鎌倉幕府を開きました。
「幕府での立場が弱い」という逆境
源頼朝肖像——1180年に平家打倒の挙兵をした人物。義重は参加を断り、新田氏は幕府内で弱い立場に置かれた
Wikimedia Commons / Public Domain
頼朝の挙兵に協力しなかった新田氏は、鎌倉幕府の中で恵まれない立場に置かれました。同じ源氏でも、早くから頼朝に味方した武将たちの方が重用されたのです。
新田氏は上野国(群馬県)に根を張り、地方の有力武士として生き延びました。しかし幕府の中枢には入れませんでした。
それでも名門として存続した新田氏
建長寺(鎌倉)——新田義貞が攻め込んだ鎌倉を代表する寺院。鎌倉幕府の権威と繁栄の象徴
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
逆境にあっても新田氏は名家の誇りを失いませんでした。源義国(みなもとのよしくに)を共通の先祖に持つ名門として、上野国で確固とした地盤を守りました。
そして150年後——。義重の子孫・新田義貞が後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵し、鎌倉幕府を倒しました。
「頼朝の挙兵を断った一族の子孫が、頼朝が作った幕府を滅ぼす」。歴史の皮肉でもあり、壮大な逆転劇でもあります。
ゆかりの地を訪ねよう
新田氏発祥の地・群馬県太田市には新田神社(新田義貞を祀る)があります。また鎌倉には義貞が幕府を滅ぼした東勝寺跡が残っています。
新田義貞のゆかりの地一覧から、義貞の足跡を辿るコースを計画してみてください。
よくある質問
なぜ義重は頼朝の挙兵に参加しなかったの?
明確な史料はなく諸説あります。平家との関係、慎重な判断、あるいは別の政治的思惑があったかもしれません。
新田氏と足利氏はどういう関係?
どちらも源義国(みなもとのよしくに)を先祖に持つ「源氏」の一族です。「兄弟一族」と言えます。南北朝時代には新田氏が南朝、足利氏が北朝につき対立しました。
群馬に行けば新田氏の史跡を見られる?
はい。太田市には新田神社をはじめ、義貞ゆかりの史跡が複数あります。群馬県東部(太田・館林周辺)が新田氏の本拠地でした。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
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