鎌倉市小町3丁目に残る臨済宗寺院の旧跡。1247年(宝治元年)頃、五代執権・北条時頼により北条氏菩提寺として創建された。元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで稲村ヶ崎が突破されると、最後の執権・北条高時以下870余名の北条一族郎党がこの寺に立て籠もり、堂宇に火を放って集団自害した。これにより源頼朝以来150年続いた鎌倉幕府は滅亡。寺は焼亡し、室町期に一時再建されたものの戦国期に廃絶した。1928年(昭和3年)に国指定史跡となり、現在は石碑と説明板が立つ静かな草地。隣接する谷戸の崖には「北条高時腹切やぐら」が口を開け、鎌倉幕府滅亡の凄絶な現場を今に伝える。鶴岡八幡宮の東側、宝戒寺から徒歩約5分。
東勝寺は宝治元年(1247年)頃、五代執権・北条時頼が宝治合戦で滅ぼした三浦泰村一族の追善供養と北条氏の菩提を弔うため、退耕行勇または栄西の弟子・退耕を開山に招いて創建したと伝わる臨済宗の寺院。鎌倉幕府執権の北条得宗家の菩提寺として歴代執権の崇敬を受け、最盛期には広大な寺域を有した。元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞・足利千寿王(後の義詮)の連合軍が稲村ヶ崎の岩礁を干潮に乗じて突破し鎌倉市中に乱入すると、北条高時は本拠の小町邸を捨てて一族郎党と共にこの東勝寺に退いた。太平記によれば、寺中で高時が辞世を詠み、最後の酒宴を催した後、長崎高重・摂津道準らが次々と自害し、最後に高時が腹を切って…