清廉潔白な性格と戦場での勇猛ぶりが同時代から賞賛されており、『吾妻鏡』が「世に並び無き勇士」と記したことが後世の評価の基礎となっている。北条義時が「無実」と認識していたとされる点も、その評判の確かさを裏付けている。
『吾妻鏡』は「百三十四騎」と記録する。これに対し北条義時・時房の軍勢は数千と伝わり、寡兵での戦いであった。
嫡子・重保も同日に殺害され、重忠の直系は断絶した。庶流は各地に残り「畠山氏」の名は室町時代の管領家へと継承された。
重忠が無実であると認識していた北条義時・政子は、時政の謀略が露呈した同年九月に時政と牧の方を鎌倉から追放した。重忠の横死は、最終的に時政の政治的終幕を招く伏線となった。