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怒田城跡と三浦義澄——衣笠落城後の海路脱出が幕府創業を支えた治承四年の決断
治承四年(1180年)、衣笠城が陥落した際に三浦義澄が退き、海路で安房の頼朝のもとへ脱出した水軍拠点・怒田城跡。「舟倉」という地名にその故事が今も残る。三浦一族の創業期の役割と頼朝の鎌倉入りを可能にした決断を論じる。
目次
MOKUJI
治承四年(1180年)の危機——衣笠合戦と三浦一族の選択
「舟倉」という地名——海路脱出の記憶
怒田城跡の現状
ゆかりのスポット一覧
よくある質問
源頼朝——三浦義澄らの合流を受けて房総で勢力を回復し、鎌倉入りを果たした幕府の創設者
Wikimedia Commons / Public Domain
横須賀市池田町の丘陵地帯に、怒田城跡(ぬったじょうあと)は残る。三浦半島の先端部に近いこの城跡は、三浦義澄が治承四年(1180年)の危機的局面において最後の退路として選んだ水軍拠点であった。東の谷「船倉」から海路で脱出した義澄の決断が、源頼朝の鎌倉入りを可能にし、ひいては鎌倉幕府創業を実現する一因となった。
治承四年(1180年)の危機——衣笠合戦と三浦一族の選択
源頼朝挙兵への呼応
治承四年(1180年)八月、伊豆に配流されていた源頼朝は北条時政の協力を得て挙兵した。三浦半島を本拠とする三浦一族の当主・三浦義明(当時八十九歳)は頼朝方への合力を決断し、その息子・三浦義澄もこれに従った。三浦一族は相模国を中心に勢力を持つ有力御家人であり、衣笠城を本城として海上交通を掌握していた。
衣笠城の陥落と義明の討死
石橋山の戦い(治承四年〔1180年〕八月二十三日)で頼朝が敗れ房総半島へ逃れる中、三浦一族は衣笠城に籠城した。これに対し平氏方についた畠山重忠が大軍を率いて包囲・攻撃した(衣笠合戦)。
三浦義明は「先祖の霊を守るために自分は死ぬ、汝らは頼朝公に合力せよ」と告げて息子・義澄ら一族に脱出を命じ、自らは城に残って奮戦の末に討死した(八十九歳)。この老将の犠牲は後世まで三浦氏の忠義の象徴として語り継がれることになる。
畠山重忠——衣笠合戦で三浦義明を包囲した将。後に元久二年(1205年)に北条方に討たれる
Wikimedia Commons / Public Domain
怒田城への退却と海路脱出
義澄ら生き残った三浦一族は、衣笠城から南方の怒田城に退いた。怒田城は三方を高い石山に囲まれ一方が海口に開く天然の要害であり、水軍の拠点として機能していた。東の谷「船倉」(現在の「舟倉」地名の由来)には船が備えられており、義澄はここから船で相模湾を渡り、房総半島に渡った頼朝のもとへ合流した。
「舟倉」という地名——海路脱出の記憶
現在の横須賀市内に残る「舟倉」という地名は、義澄がここから船を出して脱出したという故事に由来するとされる。このような合戦・逃走の記憶が地名として保存される例は三浦半島一帯に複数見られる。
海上交通が陸上移動よりもはるかに高速かつ安全であった中世において、海に面した怒田城の地形的優位性は明白であった。三浦一族が水軍と陸軍の双方を備えた御家人であったことは、この脱出の成功に直結している。
称名寺(横浜市金沢区)——三浦半島の武家の信仰を継承した鎌倉時代の名刹
Wikimedia Commons / Public Domain
三浦義澄の頼朝との合流——幕府創業への連接
房総半島で態勢を立て直した頼朝は、義澄ら三浦一族の合流を受けて勢力を急速に回復した。頼朝はその後鎌倉に入り幕府の基礎を築く。三浦義澄は建久十年(1199年)の頼朝死後に設置された「十三人の宿老」の一員にも選ばれており、幕府草創から晩年まで一貫して頼朝・幕府を支えた功臣として評価されていたことが確認できる。
怒田城跡の現状
怒田城跡は現在も丘陵上に当時の地形的特徴を留めており、三浦半島の地形と中世の城郭構造を体感できる場所として知られる。天然の要害という評価に違わず、周囲から孤立した台地状の地形は今も確認できる。整備された観光地ではなく、歴史散策・ハイキングの目的で訪れる人が多い。
北条政子——治承四年(1180年)に義澄が海路で合流した頼朝の妻、幕府の精神的支柱
Wikimedia Commons / Public Domain
衣笠城との連絡路は義澄の退却経路として想定されており、両城跡を組み合わせて訪れることで治承四年の合戦の空間的なスケールを把握できる。
北条義時——三浦義澄とともに「十三人の宿老」を構成し幕府を支えた二代執権
Wikimedia Commons / Public Domain
ゆかりのスポット一覧
三浦一族と頼朝の合力に連なる史跡を巡ることで、鎌倉幕府創業の原点を体感できる。
怒田城跡(横須賀市)——三浦義澄が海路脱出した水軍拠点
衣笠城(横須賀市)——三浦義明が討死した三浦氏の本城
鶴岡八幡宮(鎌倉市)——頼朝が鎌倉に入った後に整備した精神的中心地
畠山重忠公史跡公園(横浜市旭区)——衣笠を攻めた畠山重忠の後の終焉地
称名寺(横浜市金沢区)——三浦半島・東国武家の信仰を伝える古刹
よくある質問
怒田城はどのような城だったのか
三方を高い石山に囲まれ一方が海口に開く天然の要害である。水軍の拠点として機能し、船を格納する「船倉」を備えていた。衣笠城が本城であったのに対し、怒田城は海路脱出のための補助拠点として機能した。
三浦義澄はなぜ衣笠城ではなく怒田城から脱出したのか
衣笠城は内陸の山城であり、陸路での脱出は包囲した畠山重忠の軍勢に阻まれる危険があった。怒田城は海に面しており、船で相模湾を渡ることで敵の包囲を迂回できた。
「舟倉」という地名は今も残っているのか
横須賀市内に地名として残っており、三浦義澄の海路脱出の故事が由来とされている。
三浦義澄はその後どのような活躍をしたのか
頼朝と合流後、幕府草創の中核として活動。建久十年(1199年)の頼朝死後には「十三人の宿老」の一員として幕府の合議制運営に参加した。
最終更新: 2026年5月22日
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