三方を高い石山に囲まれ一方が海口に開く天然の要害である。水軍の拠点として機能し、船を格納する「船倉」を備えていた。衣笠城が本城であったのに対し、怒田城は海路脱出のための補助拠点として機能した。
三浦義澄はなぜ衣笠城ではなく怒田城から脱出したのか
衣笠城は内陸の山城であり、陸路での脱出は包囲した畠山重忠の軍勢に阻まれる危険があった。怒田城は海に面しており、船で相模湾を渡ることで敵の包囲を迂回できた。
横須賀市内に地名として残っており、三浦義澄の海路脱出の故事が由来とされている。
頼朝と合流後、幕府草創の中核として活動。建久十年(1199年)の頼朝死後には「十三人の宿老」の一員として幕府の合議制運営に参加した。