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函館五稜郭——戊辰戦争最後の戦いと蝦夷共和国の史跡
戊辰戦争の終結地・五稜郭と、榎本武揚らが樹立した蝦夷共和国の実態を一次史料に基づいて解説。箱館戦争の経緯と函館八幡宮など周辺史跡も論じる。
目次
MOKUJI
五稜郭の築城——西洋式城郭の導入と幕末の国防
榎本武揚と蝦夷共和国——共和国の実態と限界
箱館戦争の経緯——新政府軍の北上と五稜郭開城
五稜郭の現在——塔からの星形全景
函館八幡宮——函館の守護神と幕末の記憶
函館と北海道開拓の記憶
よくある質問
参拝時のポイント
五稜郭と明治期北海道の歴史的位置付け
五稜郭の築城——西洋式城郭の導入と幕末の国防
五稜郭は、安政四年(1857年)に幕府が着工し、元治元年(1864年)に完成した日本初の本格的な西洋式星形要塞である。設計は武田斐三郎が行い、ヴォーバン式(フランス式)城郭の理論を参考にした。五つの稜堡(星形の突角)を持つことで、従来の日本の城郭では死角となっていた城壁際を側面からカバーできる設計となっている。五稜郭の築城目的は、開港地・箱館(函館)の防衛と、ロシアの南下圧力への対応にある。嘉永六年(1853年)のペリー来航と安政元年(1854年)の日米和親条約締結により、箱館は横浜とともに最初の開港地となった。しかし皮肉なことに、この西洋式要塞が実際に戦場となったのは外国勢力に対してではなく、戊辰戦争という日本人同士の内戦においてであった。
榎本武揚と蝦夷共和国——共和国の実態と限界
慶応四年(明治元年・1868年)、鳥羽・伏見の敗戦と江戸開城の後も降伏を拒んだ旧幕府の海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府艦隊を率いて蝦夷(北海道)に上陸した。同年十一月、旧幕府方の軍は松前・江差を制圧し、十二月に五稜郭を接収した。明治二年(1869年)一月、五稜郭において蝦夷共和国の首長選挙が行われ、榎本武揚が総裁に選出された。この共和国は新政府への抵抗を組織するための事実上の軍事政権であり、一般市民の参政権などが保障された近代的共和制とは異なる。共和国という用語の採用は、オランダ留学経験を持つ榎本らが西洋の政治概念を参照したためとされる。
箱館戦争の経緯——新政府軍の北上と五稜郭開城
明治二年(1869年)四月、新政府軍は北海道への上陸作戦を開始した。旧幕府軍は弁天台場・千代ヶ岱陣屋など各地で防衛線を張ったが、制海権を失った状況での陸上戦では劣勢を挽回することができなかった。五稜郭は五月の新政府軍の包囲を経て開城した。榎本武揚は降伏後に処刑されることなく黒田清隆の助命により生き延び、後に明治政府の要職(海軍卿・外務大臣・文部大臣など)を歴任した。幕末の朝敵が明治政府の中枢に登用されたこの事例は、明治維新後の政治的統合の複雑さを象徴する。
五稜郭の現在——塔からの星形全景
現在の五稜郭は国の特別史跡に指定され、五稜郭公園として整備されている。五稜郭タワー(高さ107メートル)から見る星形の全景は、地上からは認識しにくい西洋式城郭の設計思想を俯瞰的に理解する上で有効である。堀内部には幕末期に使用された土塁・石垣の一部が残存しており、旧幕府奉行所(箱館奉行所)は平成二十二年(2010年)に一部復元されており内部が見学可能である。
函館八幡宮——函館の守護神と幕末の記憶
函館八幡宮は長禄元年(1457年)の創建と伝わる。箱館の総鎮守として機能してきた神社であり、戊辰戦争期には榎本武揚をはじめとする旧幕府方の軍人も参拝したとの記録が残る。幕末から明治期にかけての開港地・函館の政治的激動を地域の信仰の場から理解するための史跡として位置付けられる。
函館と北海道開拓の記憶
函館朝市は戊辰戦争とは直接のゆかりがないが、箱館という港湾都市の商業的基盤を示す場として、開港都市の歴史を理解するための背景的文脈を提供する。弥彦神社(札幌)は越後国一宮・彌彦神社を分祀した神社であり、北海道への越後移民がもたらした信仰の移植を示す事例である。函館立待岬は箱館戦争の海上戦が展開された津軽海峡を望む岬であり、海戦の地理的文脈を実感できる場所である。
よくある質問
蝦夷共和国は本当に共和国だったのか
蝦夷共和国という呼称は後世に定着したものであり、当時の旧幕府方が自ら名乗った名称とは異なる。五稜郭で実施された選挙は、閣僚の互選による軍政府の組織化であり、一般市民への参政権を伴う近代的共和制ではない。republic の概念を参照した点では近代政治概念の最初期の受容例として注目されるが、実態は旧幕府軍による対新政府抵抗組織と評するのが適切である。
榎本武揚はなぜ処刑されなかったのか
黒田清隆(後の第二代内閣総理大臣)が強く助命を主張したためとされる。黒田は榎本の学識・技術・能力を高く評価し、明治政府が今後の北海道開拓に活用すべき人材として保護したとされる。この判断は後に開拓使との関係や外交交渉において実際に活かされた。
五稜郭の星形は地上から見えるのか
地上から五稜郭内部を歩くだけでは星形の全体構造を認識することは困難である。高さ107メートルの五稜郭タワーの展望台から見ることで、稜堡の配置と堀の形状が一望できる。星形城郭の設計的合理性(死角の排除・側面からの火力カバー)を理解するには、俯瞰的な視点が不可欠である。
参拝時のポイント
五稜郭の見学は、まず五稜郭タワーから全景を確認し、その後に内部の土塁・石垣・旧箱館奉行所を歩くことを推奨する。
函館八幡宮は函館山の山麓に位置し、函館山ロープウェイとの組み合わせも可能。
函館朝市は函館駅の至近にあり、朝6時から開場している。
弥彦神社(札幌)は北海道内の移民信仰の史跡として、開拓期の文脈で訪れると意義が深まる。
函館立待岬は箱館戦争の海上戦が展開された津軽海峡を望む岬であり、海戦の地理的文脈を実感できる場所である。
最終更新: 2026年5月
五稜郭と明治期北海道の歴史的位置付け
箱館戦争の終結は、明治新政府にとって国内統一の完成を意味した。旧幕府勢力の最後の拠点が北海道の五稜郭であったという事実は、北海道という土地が「新しい日本」の実験場として明治政府に認識された経緯と重なる。箱館戦争終結後、明治二年(1869年)に開拓使が設置され、北海道の近代化・開拓が本格的に始動した。
榎本武揚はその後、北海道開拓に関わる外交交渉(ロシアとの樺太・千島交換条約)において重要な役割を果たした。彼の外交的才能と語学力(オランダ語・ロシア語)は、かつての「朝敵」を明治政府の有能な外交官として再生させた。これは、明治維新という転換期において、個人の能力が政治的立場の転換を可能にした好例として歴史家の関心を集める。
五稜郭を訪れることは、戊辰戦争という内戦の終結と、明治という新しい時代の出発点を同時に体験することである。幕末から明治への転換を「革命」と呼ぶか「維新」と呼ぶかという解釈の問題も含めて、日本近代史の入口に立つ感覚を覚えるスポットである。
五稜郭——函館五稜郭にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
函館八幡宮——函館五稜郭にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
函館朝市——函館五稜郭にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
彌彦神社(札幌)——函館五稜郭にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
立待岬——函館五稜郭にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
── 了 ──
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