平治の乱。頼朝(14歳)、伊豆国蛭ヶ島に配流される
頼朝と政子、婚姻(具体的時期は不詳)。政子が山木への縁談を断り伊豆山権現に逃れる
治承四年。以仁王の令旨。頼朝、石橋山で挙兵(八月)。富士川の戦い(十月)
正治元年。頼朝、落馬による負傷から急逝(享年52歳)
治承四年(1180年)五月、後白河法皇の皇子・以仁王が平氏打倒の令旨を発した。この令旨を受けた頼朝は、同年八月に伊豆で挙兵する。石橋山の戦いでは緒戦に敗れて安房国に逃れるが、坂東の武士団を糾合して盛り返し、同年秋には鎌倉に入った。
この挙兵において政子が果たした具体的な役割を示す史料は多くないが、少なくとも政子が挙兵に反対した形跡はない。むしろ、政子の家族である北条時政・北条義時がともに挙兵の中核を担っていることから、婚姻によって結ばれた頼朝と北条氏の連携が挙兵の組織的基盤を形成したと考えるのが妥当である。
/character/masakoとしての政子の真価が最も鮮明に現れるのは、実は頼朝の死後である。正治元年(1199年)に頼朝が急逝すると、鎌倉幕府の権力構造は急速に流動化した。政子は出家して尼となりながらも、「尼将軍」と称されるほどの実権を握り続けた。
承久三年(1221年)、後鳥羽上皇が幕府に対して討幕の兵を挙げた(承久の乱)。この危機において政子が御家人たちに向けて行ったとされる演説は、『吾妻鏡』承久三年五月条に記録されている。
「頼朝公が朝敵を征し、関東に幕府を開いて以来、官職といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深い。恩義を報じようとする志があるならば、今すぐ力を合わせよ」——この趣旨の演説が御家人たちの心を動かし、幕府軍は上洛して後鳥羽上皇方を圧倒した。
この演説が『吾妻鏡』の記録どおりのものであったかどうかを確認する手段はない。しかし、政子が幕府の精神的支柱として機能していたことは、この後の幕府運営のあり方が示している。
鶴岡八幡宮(鎌倉)は、頼朝が由比郷(現・材木座)に移した源氏の守護神を現在地に遷座した社である。政子もまた生涯を通じてこの社を崇敬し、鎌倉武士の精神的拠り所として機能させた。承久の乱後も幕府が安定を保った背景には、八幡宮を中心とした鎌倉の宗教的秩序が一定の役割を果たしていたと考えられている。
/character/yoritomoと政子が生きた12世紀後半は、貴族文化と武家文化が混交する過渡期であった。求愛の形式としては、平安貴族社会で発達した「通い婚」の慣習——男性が女性のもとを夜間に訪ね、翌朝に「後朝の文」を贈る——が武士階級にも一定程度浸透していた。
和歌の贈答は、単なる風雅の行為ではなく、感情と意志を伝達するための社会的コミュニケーション手段であった。頼朝が流人という制約された立場にあった以上、政子とのやり取りは秘密裏のものとならざるを得なかった。伊豆山権現という霊場が逢瀬の場として機能したのは、参籠という宗教的行為が人の往来に一定の正当性を与えたためであると考えられる。
頼朝と政子の関係において、後世まで語り継がれるエピソードの一つに政子の「嫉妬」がある。『吾妻鏡』には、頼朝が亀の前という女性と関係を持った際に、政子がその館を破壊させたという記事がある。このエピソードは、政子の激しい感情的反応を示すものとして引用されることが多い。
しかし、この出来事を「嫉妬深い妻」という図式で理解することには慎重であるべきである。中世の婚姻においては、正室の地位と権威は一夫多妻的な関係の中でも保全される建前があった。政子の行動は、正室としての地位と権威を守るための政治的行為であったとも解釈できる。感情と政治的判断の混交という複雑な実態を、単純な図式に還元することは避けるべきであろう。