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鶴ヶ城(会津若松城)
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鶴ヶ城(会津若松城)
福島県
創建
1384
種別
アクセス
JR磐越西線会津若松駅からバス約15分
福島県会津若松市追手町1-1
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基本情報
創建 1384
642年目
概要
会津若松のシンボルとして知られる鶴ヶ城は、蘆名氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・保科氏など多くの大名が支配した東北屈指の名城。14世紀に葦名氏が築いた黒川城が前身で、1589年の摺上原の戦いで伊達政宗が会津を制圧した際に手中に収めた。しかし秀吉の奥州仕置により政宗は会津を没収され、蒲生氏郷が入城。その後上杉景勝、関ヶ原後は保科正之が入り会津松平家の居城となった。戊辰戦争では旧幕府軍の拠点として1か月にわたる激戦の末に開城し、白虎隊の悲劇でも有名。現在の天守閣は1965年に鉄筋コンクリートで復元され、赤瓦の美しい姿で来訪者を迎える。
由緒
1384年(至徳元年)、蘆名氏の家臣・葦名直盛が黒川城を築いたのが鶴ヶ城の前身とされる。蘆名氏はその後、長きにわたり会津を支配したが、1589年(天正17年)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、政宗が城を手中に収めた。しかし豊臣秀吉による奥州仕置によって政宗は会津を没収され、1590年に蒲生氏郷が入城。氏郷は城を大規模に改修し、城下町の整備を進めるとともに、城の名を「鶴ヶ城」と改めたとされる。1598年に氏郷の後を受けて上杉景勝が入城し、さらに関ヶ原の戦い後は加藤嘉明の所領となった。江戸時代初期に保科正之が入封し、以後は会津松平家の居城として幕末まで続いた。1868年(慶応4年)の戊辰戦争では旧幕…
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1868
会津戦争
1868年(慶応4年)8月から9月にかけて行われた戊辰戦争の重要な戦局。会津藩主・松平容保は京都守護職として新選組を傘下に収め、長州・薩摩と敵対した。鶴ヶ城(若松城)を拠点に会津藩は新政府軍の総攻撃に一カ月以上抵抗したが、圧倒的な兵力差の前に降伏した。この戦争で多くの悲劇が生まれた。藩校日新館に学ぶ10代の少年兵・白虎隊は飯盛山から城が炎上していると誤信し、集団自刃した。また女性たちも娘子軍として戦闘に参加したことで知られる。会津藩の徹底抗戦は「義」への忠誠として高く評価される一方、降伏後の藩士・藩民への処遇は過酷なものとなった。土方歳三率いる新選組残党も斎藤一らとともに会津の防衛戦に加わった。会津若松市内には鶴ヶ城、白虎隊の墓がある飯盛山、新選組関連の史跡など、会津戦争に関する多くの遺跡が集中しており、幕末史ファンの聖地となっている。
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1868
戊辰戦争
1868年(慶応4年)1月から1869年(明治2年)5月にかけて戦われた、明治新政府軍と旧幕府・奥羽越列藩同盟などの戦争。鳥羽・伏見の戦いに始まり、江戸城無血開城、東北の奥羽越列藩同盟との戦い、箱館戦争まで、約1年半にわたった内戦。最終的に新政府軍が全国制覇に成功し、明治維新が完成した。旧幕府軍側には会津藩・庄内藩・榎本武揚らが抵抗し、その悲劇は今も東北各地に語り継がれている。この戦争は近代日本国家の誕生を決定づけた歴史的内戦として位置づけられる。
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松平容保とのつながり
松平容保は会津藩9代藩主として鶴ヶ城を居城とした。文久2年(1862年)に京都守護職に就任し、新選組を組織して幕末の京都治安維持に当たった。鳥羽・伏見の戦い後に帰城し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では官軍と1か月にわたる籠城戦を展開。白虎隊をはじめ多くの若者が散った末に開城・降伏した。鶴ヶ城は容保の忠義と会津藩の悲劇を象徴する城として後世に語り継がれる。
伊達政宗とのつながり
1589年の摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした政宗は鶴ヶ城(当時は黒川城)を制圧し会津を領有した。しかし翌年の奥州仕置で秀吉に会津を没収され、政宗の夢は頓挫した。

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