幕末期に長州藩(現・山口県)が京都に置いた藩邸の跡地。河原町三条の一角に位置し、倒幕運動の最前線を行く長州藩士たちの活動拠点として機能した。文久2年(1862年)の「航海遠略策」採択後に長州藩の政治的影響力が増す一方、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で公武合体派に敗れ、長州藩主毛利慶親・定広父子は京都から追われた。翌元治元年(1864年)7月の禁門の変(蛤御門の変)では長州勢が武力で京都に返り咲こうとして失敗し、薩摩・会津の連合軍に敗退した。以後「朝敵」とされた長州藩は、幕府による第一次・第二次長州征伐を経て坂本龍馬らの仲介による薩長同盟(1866年)を結び、最終的には倒幕・明治維新の主軸を担うに至った。現在は石碑が往時の拠点の記憶を伝える。
長州藩(毛利家・36万石)は江戸時代を通じて外様大名として徳川幕府と一定の緊張関係を保ってきた。幕末期に攘夷・倒幕の機運が高まる中、長州藩は尊王攘夷運動の急先鋒として台頭し、この京屋敷を政治活動の拠点とした。文久3年(1863年)には幕府命令に従い長門・周防に退去させられ、翌元治元年(1864年)7月の禁門の変では武力による京都奪還を図ったが薩摩・会津軍に敗北、以後「朝敵」に指定された。第一次・第二次長州征伐(1864・1866年)を経た後、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により薩摩藩と薩長同盟を締結(1866年)。鳥羽・伏見の戦い(1868年)以降の戊辰戦争で官軍の主力を担い、明治政府の中核となる…