山号・金谷山、宗派・日蓮宗。三浦半島の日蓮宗本山格寺院として、傘下に三浦半島全域の32か寺を擁した格式高い古刹。建長5年(1253年)、日蓮聖人が房総半島から鎌倉へ向かう途上に三浦半島の米ヶ浜へ上陸した際、その教えに帰依した豪族・石渡左衛門尉則久が法華堂を創建したのが起源。明徳3年(1392年)に則久の子・平三郎則次が現在地の衣笠金谷に移転し「大妙寺」と称したが、江戸期の朱印状に「妙」字が「明」字と誤記されたことで「大明寺」の名が定着した。戦国時代には太田道灌の子・日遵が第11世住職となり、道灌の嫡男・太田資康の墓所ともなっている。横須賀市指定重要文化財として応永6年(1399年)銘の「木造三宝本尊像」と「木造伝石渡則次夫妻坐像」を伝える。東国花の寺百ヶ寺にも選定されており、毎年11月には日蓮聖人の命日を偲ぶ「お会式(おえしき)」に約3,000人が参拝する。
建長5年(1253年)、日蓮聖人は安房国清澄寺で立教開宗し、鎌倉へ向かう途上に三浦半島の米ヶ浜(現・横須賀市米が浜通周辺)に上陸した。この地で聖人の教えに深く帰依した石渡左衛門尉則久が「三浦法華堂」を創建したのが大明寺の起源である。明徳3年(1392年)、則久の子・平三郎則次が現在地の衣笠金谷に移転し「大妙寺」と改称した。江戸幕府から朱印状を拝領した際、奉行の手により「妙」字が「明」字と誤記されたまま定着し、以後「大明寺」を公称とする。戦国時代、江戸城を築いた太田道灌の子・日遵が第11世住職に就任し、さらに道灌の嫡男・太田資康が北条早雲との合戦(永正9年・1512年)で三浦氏とともに討死し、そ…