JR「京都」駅から徒歩7分
京都府京都市下京区烏丸通七条上ル
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穢れ祓い・心身の浄化・邪気払い。禊(みそぎ)や護摩の伝統に連なる。
御祭神「阿弥陀如来」のご神徳に由来
浄土真宗大谷派の本山。慶長7年(1602年)に徳川家康が本願寺を東西に分立させて成立した。御影堂(大師堂)は東西76m・南北58mの巨大な木造建築で国内最大級。阿弥陀堂とともに壮大な伽藍を形成する。明治初期の再建時に女性門徒が自らの髪を縄に編んで資材運搬に供した「毛綱」が今も保存される。京都駅から徒歩約7分のアクセスで気軽に参拝できる浄土真宗の大本山。毎年1月の「御正忌報恩講」には全国から数万人の門徒が集まる信仰の中心地。
慶長7年(1602年)、徳川家康が本願寺内部の派閥対立に乗じて本願寺12世・教如に烏丸七条の寺地を寄進し、西本願寺から分立させたのが創始。以後「真宗大谷派」の本山として西本願寺と並ぶ浄土真宗の中心寺院となった。江戸期は「火出し本願寺」と揶揄されるほど火災が多く、天明8年(1788年)の京都大火で全焼後、幕府から飛騨産木材4600本の寄進を受け寛政10年(1798年)両堂再建。その後も文政6年(1823年)、安政5年(1858年)、元治元年(1864年)の禁門の変で相次いで焼失し、その都度復興した。明治13年(1880年)の釿始式から宗祖親鸞750回御遠忌に向けた大規模再建が始まり、明治28年(…
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慶長7年(1602年)、教如は徳川家康から烏丸七条の地を寄進され、東本願寺を創立した。父・顕如の代に結ばれた織田信長との石山講和(天正8年・1580年)に対し、教如は徹底抗戦を主張して父と義絶状態となり、その後も豊臣秀吉政権下で不遇をかこった強硬派であった。関ヶ原後、家康は本願寺教団の勢力分断を図って教如に新たな本山を与えたが、それは同時に和議を拒んだ教如の生涯の信念に応える形となった。東本願寺(お東)の本山として、教如が「強硬派の本願寺」を確立したことで、本願寺教団は東西に分立し、現在に至る真宗大谷派の礎が築かれた。
慶長7年(1602年)、徳川家康が本願寺の勢力分断を図り、教如に烏丸七条の土地を寄進して東本願寺を分立させた。親鸞の教えを継ぐ真宗大谷派の本山として、御影堂には親鸞聖人の御真影(木像)が安置される。御影堂は世界最大級の木造建築で、再建時に女性門徒が毛髪を撚って作った「毛綱」が用いられた逸話は、門徒の篤い信仰を象徴する。
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