聖地マップ
みんなの投稿
記録
辿る
マイページ
‹
神奈川県
Toku
怒田城跡
神奈川県
三浦水軍の拠点・怒田城—1180年衣笠城落城後に三浦義澄が退き船で安房の頼朝のもとへ脱出した鎌倉幕府創業の史跡
創建
1100 年
種別
城
アクセス
京急北久里浜駅から徒歩15分
横須賀市池田町ほか
Google Map で開く ↗
基本情報
城
創建 1100年
926年目
概要
三浦氏の水軍基地として機能した要害堅固な城跡。三浦義明の末弟・義実(岡崎氏)の後、長男・義宗(杉本氏)が居城したと伝わる。『源平盛衰記』に「三方は石山高うして、馬も人も通ひ難き悪所なり。一方は海口に道一つ開けたれば、よき者十二百人あらば、たとい敵何萬騎寄せたりとも、たやすく責め落とすべからず」と記された天然の要害。治承4年(1180年)の衣笠合戦で三浦義澄はこの城に退き、東の谷の「船倉」から船で安房の頼朝のもとへ脱出した。現在の「舟倉」の地名はこの故事に由来する。台地上には縄文時代の吉井貝塚(神奈川県指定史跡)も発掘されている。
由緒
治承4年(1180年)8月、源頼朝の挙兵に呼応した三浦義澄は、石橋山の敗報を聞いて衣笠城に引き返すが、畠山重忠の大軍に攻められ衣笠城は陥落。義明が殿を務めて討死する中、義澄以下の一族はこの怒田城に退いた。東の谷に常繋していた三浦水軍の船で安房に渡海し、頼朝と合流。以後、三浦一族は鎌倉幕府創設の中核となる。怒田城は三浦水軍の発祥の地であり、海と陸の結節点として三浦氏の命運を左右した戦略拠点であった。
記
関連記事
— 3
怒
怒田城跡と三浦義澄——衣笠落城後の海路脱出が幕府創業を支えた治承四年の決断
治承四年(1180年)、衣笠城が陥落した際に三浦義澄が退き、海路で安房の頼朝のもとへ脱出した水軍拠点・怒田城跡。「舟倉」という地名にその故事が今も残る。三浦一族の創業期の役割と頼朝の鎌倉入りを可能にした決断を論じる。
era
›
衣
衣笠城と三浦義明の討死——八十九歳の老将が頼朝の鎌倉入りを可能にした忠義の自己犠牲
治承四年(1180年)、三浦義明が八十九歳で討死した衣笠城。息子・義澄らを頼朝のもとへ逃がし自ら殿を務めた老将の決断は、幕府創業の連鎖を保つ重要な節点であった。史跡として残る山城の遺構と、忠義の伝説の史料的根拠を検証する。
era
›
畠
畠山重忠と二俣川の合戦——坂東武者の鑑が散った元久二年の謀略
元久二年(1205年)六月、北条時政の謀略により武蔵国二俣川で討たれた畠山重忠。清廉潔白な武将として「坂東武者の鑑」と称えられた重忠の生涯と最期、そして事件の政治的意味を一次史料から読み解く。
era
›
人
ゆかりの人物
— 1
三浦義澄
相模の大御家人
›
怒田城は三浦半島・横須賀に築かれた三浦氏の城で、三浦水軍の拠点とされる。治承4年(1180年)の衣笠合戦で本拠を追われた三浦一族は、ここから海路で安房へ渡り源頼朝と合流したと伝わる。義澄ら三浦一族の水軍力を物語る城跡である。
みんなの投稿
0
+
まだ投稿がありません
あわせて巡りたい
西
西叶神社
文覚上人が1181年に源頼朝の源氏再興を祈願して創建、その願いが叶ったことから「叶神社」と称される浦賀の名社
1.5km
→
満願寺
建久5年(1194年)に佐原義連が源頼朝の支援を得て三浦一族の菩提を弔った臨済宗寺院、国重文の木造観音菩薩像を安置
2.4km
→
真
真福寺
神奈川県横須賀市に所在する真福寺
318m
→
清
清雲寺(三浦氏三代の墓)
長治元年(1104年)に三浦義継が創建した三浦一族発祥の地、初期三代の廟所と国重文の鎌倉期観音像を伝える古刹
3.2km
→
法
法善寺
神奈川県横須賀市に所在する法善寺
504m
→
宗
宗円寺
神奈川県横須賀市に所在する宗円寺
606m
→
久
久里浜八幡神社
養老4年(720年)創建の古社、徳川家康から社領を寄進され12代将軍の御朱印状を受けた弥生式土器も出土する久里浜の鎮守
906m
→
久
久里浜天神社
万治3年(1660年)に内川新田開拓の加護を願い創建された三浦半島唯一の天満宮、菅原道真ゆかりの梅と学業成就で知られる
1.2km
→
記
情報を提案する
位置のずれ / 由緒 / 参拝時間 / アクセス / 設備 / 注意事項 などを提案できます
›
事実と違う内容を報告
›
📱
アプリでもっと便利に
GPS自動スタンプ・オフライン閲覧・推し活機能
App Store からダウンロード
+
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
✕