元禄14年(1701年)、播州赤穂藩主・浅野長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に斬りかかり即日切腹を命じられた。翌元禄15年(1702年)12月14日、筆頭家老・大石内蔵助良雄を中心とする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討った。この事件は「元禄赤穂事件」として後世に語り継がれ、やがて「忠臣蔵」として歌舞伎・浄瑠璃に昇華され広く民衆に親しまれた。明治維新後、義士たちの忠義を顕彰する機運が高まり、大正元年(1912年)、赤穂城の三の丸跡に大石内蔵助をはじめ四十七士全員を祭神として大石神社が創建された。境内には四十七士の等身大像が整備され、遺品・書状・武具を収める義士木像奉安殿が設けられた…