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島流しから天下を取り返した天皇——後醍醐天皇と隠岐脱出
後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒を企てて失敗し、隠岐島へ流罪となった。しかし島を脱出し、楠木正成・新田義貞ら武将の支援で1333年に鎌倉幕府を滅ぼした。執念で天下を取り返した異例の天皇、後醍醐の倒幕への道を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
一
天皇親政への執念
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二
二度の失敗と隠岐配流
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三
隠岐脱出と幕府滅亡
›
四
建武の新政へ
›
五
ゆかりの地を訪ねよう
›
六
よくある質問
›
後醍醐天皇肖像——隠岐に流されながらも脱出し、鎌倉幕府を倒して天皇親政を実現した執念の天皇
Wikimedia Commons / Public Domain
「島流しにされた天皇が、脱出して天下を取り返す」——映画のような展開を実際にやってのけたのが**後醍醐天皇(ごだいごてんのう)**です。
天皇親政への執念
鎌倉時代後期、政治の実権は鎌倉幕府の北条氏(執権)が握っていました。天皇は名目上の存在で、実際の政治力はありませんでした。
しかし後醍醐天皇は「天皇が自ら政治を行うべきだ」という強い信念を持っていました。「天皇親政(てんのうしんせい)」の復活を目指し、幕府打倒を企てたのです。
冬の日本海と隠岐——後醍醐天皇が流された絶海の孤島。ここから脱出して倒幕を成し遂げた
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
二度の失敗と隠岐配流
後醍醐天皇の倒幕計画は、簡単には成功しませんでした。
1324年の「正中の変」、1331年の「元弘の変」と、二度にわたって倒幕計画が幕府に発覚しました。1331年の失敗で、後醍醐天皇はついに捕らえられ、**隠岐島(おきのしま、島根県)**へ流罪となりました。
普通の天皇なら、ここで諦めるところです。しかし後醍醐は違いました。
隠岐脱出と幕府滅亡
金峯山寺(奈良・吉野)——後醍醐天皇が南朝を開いた吉野の中心寺院。倒幕の執念を貫いた天皇ゆかりの地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1333年、後醍醐天皇は隠岐島からの脱出に成功しました。
このころ、各地で反幕府の動きが広がっていました。楠木正成が千早城で幕府の大軍を翻弄し、各地の武士が次々と倒幕に立ち上がっていたのです。
後醍醐の脱出は、この倒幕の機運を決定的に高めました。
足利尊氏が幕府方から寝返って六波羅探題(幕府の京都拠点)を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻略。1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。
島流しにされた天皇が、執念で天下を取り返したのです。
建武の新政へ
幕府を倒した後醍醐天皇は、念願の「天皇親政」を始めました。これが「
建武の新政(けんむのしんせい)
」です。
しかしこの新政は、武士の不満を招いて長くは続きませんでした(詳細は
建武の新政の記事
を参照)。
ゆかりの地を訪ねよう
後醍醐天皇が南朝を開いた吉野には
金峯山寺
(奈良県吉野町)があります。後醍醐ゆかりの地として、桜の名所としても知られます。
後醍醐天皇のゆかりの地一覧
でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
隠岐島はどこにある?
島根県の沖、日本海に浮かぶ島々です。古くから天皇・貴族の流刑地として使われ、後鳥羽上皇(承久の乱で敗北)も隠岐に流されました。
後醍醐天皇はなぜそこまで天皇親政にこだわったの?
「天皇こそが日本の正統な支配者である」という強い信念を持っていたためです。理想は古代の天皇中心の政治(醍醐天皇の治世など)でした。「後醍醐」という名も、醍醐天皇を理想としたことに由来します。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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この記事の人物
後
後醍醐天皇
建武の新政・倒幕の旗手
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詣
ゆかりの地を訪ねる
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