元弘元年(1331年)、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚した(元弘の乱)。天皇は笠置山に拠って抵抗したが、幕府軍に追い詰められ、元弘二年(1332年)に隠岐へ配流された。高時は出家後も得宗としてこの追討の意思決定に関与しており、形式上の引退者ではなく実質的な権威の体現者として機能していたことが確認できる。
事態が決定的に転換するのは元弘三年(1333年)である。後醍醐天皇が隠岐を脱出し、楠木正成・赤松円心らの抵抗勢力が各地で蜂起するなかで、幕府は六波羅探題へ足利尊氏を追討のために派遣した。しかし尊氏は天皇方に転じて六波羅探題を攻略し、幕府は京都を失った。
同年五月八日、新田義貞が上野国の生品明神にて挙兵した。義貞の軍勢は急速に南下し、武蔵野を席巻して鎌倉へ迫った。幕府軍は各所で応戦したが、五月二十二日、義貞軍は稲村ヶ崎を突破して鎌倉市内へ侵入した。
追い詰められた高時は、北条一族・郎党八百七十余名とともに東勝寺(現・鎌倉市小町)に退いた。そして自害によって最期を遂げた。享年三十一。源頼朝以来、約百五十年にわたって続いた鎌倉幕府は、この日をもって滅亡した。
高時の辞世として「吹き渡る 風に散る花 諸共に 散り行く身こそ 哀れなりけれ」が伝わる。軍記物の修辞が混入している可能性を否定できないが、この歌が示す諦観と詩情は、単純な暗愚像とは相容れない感受性の存在を示唆する。
東勝寺跡(鎌倉市小町)の背後には、今日も北条高時腹切やぐらと呼ばれる横穴式墳墓が残る。鎌倉独特の岩盤を穿った横穴墓(やぐら)であり、北条一族が自害した東勝寺の記憶を、七百年近くにわたって静かに刻み続けている。