東勝寺跡は現在の鎌倉市小町に所在し、北条氏の菩提寺として鎌倉時代を通じて重要な地位を占めた。創建は北条泰時の時代(13世紀前半)と伝えられ、北条得宗家(嫡流)の廟所として機能してきた。
得宗・北条高時(1303〜1333年)は嘉暦元年(1326年)に政治的実権を失い、長崎高資ら内管領に実権を掌握されたまま名目上の最高権力者であり続けた。義貞軍の侵入を受け、高時は一族・郎党を率いて東勝寺に籠った。
五月二十二日(新暦7月5日)、高時は東勝寺において自害した。享年三十一。『太平記』は、高時が庭で鼓を打ちながら笑い、やがて腹を切ったという印象的な場面を描いているが、これは軍記物特有の文学的演出と理解すべきである。史実としては、高時とともに得宗被官・一族ら八百余人(『太平記』の数字であり誇張を含むが、数十人〜数百人規模の集団自害であったことは確かである)が東勝寺で命を絶ち、寺院は炎上した。この集団自害をもって、源頼朝が元暦元年(1184年)以来一世紀半にわたって構築してきた鎌倉幕府は滅亡した。
東勝寺跡の背後には腹切やぐらと呼ばれる岩窟が残る。「やぐら」とは鎌倉時代の横穴式墳墓であり、北条一族の遺骸がこの場所に葬られたと伝わる。現在も供養の石塔が安置されており、鎌倉幕府終焉の地として歴史的意義を持つ。