learn/[id]

時代
2 分で読める
ERA
頼朝が「日本一の大天狗」と呼んだ男——後白河法皇の権謀術数
源頼朝は後白河法皇を「日本第一の大天狗」と評した。天狗とは人を誑かす妖怪——つまり最大級の警戒と皮肉を込めた称号。清盛・義仲・義経・頼朝という四人の強大な武将を次々と使い回し、最終的に自らの権力を守り続けた法皇の驚くべき政治術を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
後白河法皇とはどんな人物か
四人の強大な武将を使い回した戦略
「天狗」と呼ばれた理由
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
三十三間堂(京都)——後白河法皇が建立した1001体の千手観音像が並ぶ壮大な仏堂
Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
「日本第一の大天狗」——これは褒め言葉でしょうか、それとも悪口でしょうか。
源頼朝が後白河法皇に送ったこの言葉は、どちらでもあり、どちらでもありました。天狗とは「人を誑かす(たぶらかす)妖怪」です。
後白河法皇とはどんな人物か
後白河法皇(1127-1192年)は、平安末期から鎌倉初期にかけて30年以上にわたって日本の政治に君臨した人物です。
法皇(上皇が出家した状態)というと「権力から退いた存在」に聞こえますが、後白河は全く違いました。天皇の座を譲ってからも「院政」という形で政治の実権を握り続けました。
後醍醐天皇肖像(参考)——後白河から100年後に同じく「武家との戦い」を挑んだ天皇
Wikimedia Commons / Public Domain
四人の強大な武将を使い回した戦略
後白河法皇の政治力の真骨頂は「強い者を利用し、強くなりすぎたら捨てる」という戦略にあります。
清盛(平家)を利用→捨てる 平清盛を重用して平家政権を確立させましたが、清盛が独走すると対立。1179年に清盛に軟禁されましたが、清盛の死後に復権しました。
義仲を利用→捨てる 源義仲が平家を都から追い払うと、今度は義仲を利用。しかし義仲が暴力的になると義経に討たせました。
義経を利用→捨てる 義経を使って平家を滅ぼしましたが、義経が頼朝と対立すると義経を見捨てました。
頼朝と妥協 さすがに頼朝は「使い捨て」できず、妥協しながら関係を維持しました。1192年、後白河法皇が亡くなった後、頼朝はついに征夷大将軍に任命されました。
「天狗」と呼ばれた理由
三十三間堂・千手観音——後白河法皇が造営した平安末期の仏教美術の至宝
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
頼朝が法皇を「天狗」と呼んだのは、「法皇に振り回され続けた」という体験からでしょう。
強大な軍事力を持つ頼朝でも、後白河という老獪な政治家を完全に制御することはできませんでした。
「義経に追討の院宣を出させてくれ」と頼朝が要求しても、法皇はしばらく渋った。頼朝が圧力をかけると最終的に出す——そういうやり取りが繰り返されました。
ゆかりの地を訪ねよう
後白河法皇ゆかりの地として三十三間堂(京都・東山区)は外せません。法皇が建立した最勝光院の一部として造られた長大な仏堂で、1001体の千手観音像が並ぶ圧巻の空間です。
六波羅蜜寺(京都)も平安末期から鎌倉期の歴史を感じられるスポットです。
後白河法皇のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
後白河法皇は「悪い人」なの?
そう単純には言えません。平安末期〜鎌倉初期という激動の時代を生き残るために、状況に応じた柔軟(ときに裏切りに見える)な判断をし続けた人物です。
「院政」ってどういう意味?
天皇が位を譲った後も「院(上皇・法皇)」として政治を続けることです。平安時代後期に白河上皇が始め、後白河法皇はその最も有名な例の一つです。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
この記事は
♡ 役に立った
一 期 一 会
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード