learn/[id]

時代
3 分で読める
2
ERA
250年かかった本!徳川光圀と「大日本史」という壮大な夢
水戸黄門の愛称で知られる徳川光圀は、司馬遷の「史記」に感動して日本版の正史「大日本史」の編纂を始めた。全397巻のこの事業は完成まで250年以上かかった。一人の武将が始めた壮大な学術プロジェクトが日本の歴史・思想を変えた話を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
光圀が「史記」に感動した
大日本史の編纂スタート
大日本史が「水戸学」を生んだ
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
徳川家康——光圀の祖父。家康が開いた江戸幕府の御三家の一つ「水戸徳川家」の2代藩主が光圀だった
Wikimedia Commons / Public Domain
「人生をかけて本を書く」という話は聞いたことがあるかもしれません。でも「250年かけて完成した本」はなかなかないですよね。
徳川光圀が1657年に始めた「大日本史」編纂事業は、完成まで1906年まで——実に249年かかりました。
光圀が「史記」に感動した
きっかけは一冊の本でした。
中国の歴史家・司馬遷(しばせん)が書いた「史記(しき)」です。これは中国の歴史を体系的に記録した名著で、2000年以上前に書かれたにもかかわらず、当時も「歴史書の模範」として知られていました。
17歳の光圀はこの史記を読んで感動しました。「日本にも、これほどしっかりとした歴史書があるべきだ」。
関ヶ原の戦い——光圀の時代の1世代前の大事件。光圀が生涯をかけて記録しようとした「大日本史」は、この関ヶ原より古い時代の歴史を扱っている
Wikimedia Commons / Public Domain
大日本史の編纂スタート
1657年(万治元年)、光圀は水戸に**彰考館(しょうこうかん)**という研究機関を設立し、「大日本史」の編纂を始めました。
この事業の目標は「神武天皇から後小松天皇まで(日本の初代天皇から室町時代まで)の正式な歴史を漢文で書くこと」でした。
全国から優秀な学者を集め、資料を調査し、史実を確認し、文章を書く……この作業が何十年も続きました。
光圀自身も完成を見なかった
光圀は1701年に73歳で亡くなりましたが、大日本史の完成を見ることはありませんでした。しかし光圀が死んでも編纂事業は続きました。
水戸藩の歴代の藩主たちが代々この事業を引き継ぎ、最終的に全397巻の大日本史が完成したのは1906年(明治39年)でした。
大日本史が「水戸学」を生んだ
建長寺(鎌倉)——大日本史が取り扱った南北朝時代・室町時代の歴史の舞台の一つ。光圀が情熱を注いだ歴史の中の鎌倉文化
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
大日本史の編纂を通じて「水戸学(みとがく)」という思想体系が生まれました。
特に重要だったのは「南朝正統論」です。南北朝時代(14世紀)に二つの朝廷が並立したとき、大日本史は「後醍醐天皇の南朝が正統であった」と主張しました。
これは、天皇を中心とする国家観(尊王思想)につながり、幕末の「倒幕運動」「明治維新」の思想的な源流の一つになりました。
「武将が始めた歴史書の編纂が、200年後の日本の政治を変えた」という壮大な歴史のつながりです。
ゆかりの地を訪ねよう
水戸市には光圀ゆかりの地が集中しています。水戸弘道館(水戸市)は光圀の孫・徳川斉昭が建てた藩校で、水戸学の精神を体現した建物です。国の特別史跡に指定されています。
水戸城跡(水戸市)は光圀が藩主を務めた水戸藩の本拠地です。
徳川光圀のゆかりの地一覧で、水戸の歴史スポットをまとめて確認してみてください。
よくある質問
「水戸黄門」のドラマとは関係ある?
テレビドラマの「水戸黄門」は光圀が主人公ですが、実際に光圀が諸国を漫遊したわけではありません。光圀の「正義を大切にした生き方」と「大日本史編纂による学問尊重」のイメージが、テレビの勧善懲悪ドラマの主人公として採用されました。
大日本史を今でも読める?
はい。国立国会図書館デジタルコレクションなどで全文を読むことができます(漢文のため難解ですが)。
水戸学はなぜ幕末に重要だったの?
水戸学の「尊王攘夷(天皇を敬い外国を打ち払え)」という思想が、幕末の倒幕運動の理論的根拠の一つとなりました。吉田松陰・西郷隆盛など多くの志士が水戸学の影響を受けました。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
この記事は
♡ 役に立った
一 期 一 会
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード