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明が滅んでも清に仕えなかった儒学者——朱舜水と光圀の水戸
明朝が清に滅ぼされた後、本国への帰国を諦めた儒学者・朱舜水は徳川光圀に招かれ水戸で暮らした。「義を守って清に仕えなかった」という朱舜水の姿勢は、光圀の水戸学・大日本史の精神的背景の一つとなった。日本と中国の学問的交流を示す歴史的エピソードを解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
朱舜水の放浪生活
光圀が朱舜水を招く
朱舜水が水戸学に与えた影響
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
徳川家康——光圀の祖父。家康が作った江戸幕府の下で、光圀は中国から亡命した朱舜水を保護した
Wikimedia Commons / Public Domain
「国が滅んでも、新しい支配者に仕えない」という生き方を選んだ人がいます。
**朱舜水(しゅしゅんすい、1600-1682年)**は、中国・明朝の儒学者です。1644年に明が清に滅ぼされると、朱舜水は「清朝には仕えない」と決意し、その後数十年にわたって流浪の生活を送りました。
朱舜水の放浪生活
明が滅んだ後、朱舜水は明の再興を目指して各地を転々としました。日本にも数回訪れています。
当時の日本は江戸幕府の時代。中国の儒学者が亡命してくることは珍しいことでしたが、朱舜水の深い学識と高潔な人格は日本の学者たちの間でも評判になりました。
建長寺——中国から渡来した禅僧・蘭渓道隆が開いた鎌倉五山第一の寺。朱舜水のような中国からの学者が日本の知的文化に貢献した歴史の流れを象徴する
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
光圀が朱舜水を招く
光圀はその評判を聞き、1665年ごろに朱舜水を水戸に招きました。当時の朱舜水は65歳前後。明朝滅亡から20年以上、清に仕えることなく生き続けてきた老学者でした。
光圀は朱舜水を手厚くもてなし、儒学・礼学・建築など多岐にわたる知識を学びました。朱舜水は水戸で82歳まで生き、1682年に没しました。
朱舜水が残したもの
朱舜水が水戸にいた17年間で伝えたものは多岐にわたります。
儒学・礼学: 孔子の礼の実践を日本に伝えた
建築: 偕楽園(水戸の日本三名園の一つ)の設計に影響したとも言われる
学問の方法論: 「典籍(書物)だけでなく実践が重要」という考え方
朱舜水が水戸学に与えた影響
関ヶ原の戦い——江戸幕府の実権が確立した転換点。その半世紀後に光圀が朱舜水を招いた時代の日本を象徴する
Wikimedia Commons / Public Domain
朱舜水の「義のために清朝に仕えなかった」という姿勢は、水戸学の「尊王」「忠義」という思想に深く影響しました。
「支配者が変わっても、正しい価値観・君主への忠義は変えない」という精神。これが水戸学の根底に流れ、後の尊王攘夷運動・明治維新の思想的基盤の一つになりました。
「一人の中国人儒学者の生き方が、200年後の日本の歴史を変えた」というのは、少し大げさかもしれませんが、知的な影響の連鎖として非常に興味深い話です。
ゆかりの地を訪ねよう
朱舜水は水戸で82歳まで過ごし、その墓は茨城県水戸市の瑞龍山(ずいりゅうさん)にあります。また光圀が建てた水戸弘道館には、朱舜水の教えが反映されているとされています。
徳川光圀のゆかりの地一覧から、水戸の学問の歴史を辿るコースを計画してみてください。
よくある質問
朱舜水は日本語を話せたの?
漢文(中国の古典文章語)で通じる部分もありましたが、朱舜水は日本語が不得手だったとされています。光圀との学問的交流は漢文での筆談が中心だったようです。
明から清への王朝交代はなぜ起きたの?
17世紀の明は政治腐敗・農民反乱・経済疲弊が重なり衰退しました。北東から台頭した清(女真族)が1644年に北京を制圧し、明は滅亡しました。
「尊王攘夷」と水戸学はどう繋がるの?
水戸学は「天皇を中心に国を治めよ(尊王)」「外国を打ち払え(攘夷)」という考えを発展させました。朱舜水の「異民族(清)に服しない」という姿勢が、「外来の威圧に屈しない」という水戸学の精神に重なりました。
最終更新日:2026年6月2日
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