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水戸黄門の父——水戸藩を作った徳川頼房とは何者か
水戸黄門(徳川光圀)の父・徳川頼房は、徳川家康の十一男として生まれ、水戸藩の初代藩主となった人物。御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つ「水戸徳川家」を確立した頼房の生涯と、光圀の大日本史編纂に与えた影響を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
一
頼房はどんな人物か
›
二
御三家とは何か
›
三
頼房が光圀に与えた影響
›
四
ゆかりの地を訪ねよう
›
五
よくある質問
›
徳川頼房——水戸藩初代藩主。家康の十一男として御三家の一つ水戸徳川家を確立した
Wikimedia Commons / Public Domain
「親の背中を見て子は育つ」とよく言いますね。
水戸黄門・徳川光圀が大日本史の編纂に情熱を燃やすようになった背景には、父・**徳川頼房(よりふさ)**の影響があったと言われています。
頼房はどんな人物か
徳川頼房(1603-1661年)は、江戸幕府を開いた徳川家康の11番目の息子として生まれました。
「十一男」というのは、ものすごく大家族のイメージです。家康は多くの妻・側室を持ち、多くの子どもをもうけました。頼房はその末弟に近い存在でした。
それでも「御三家」の一つに列せられたのは、家康が「尾張・紀伊・水戸の三家に徳川の血脈を残す」という方針を持っていたからです。
徳川家康——頼房の父。家康は御三家という制度を作ることで、徳川幕府の永続を図った
Wikimedia Commons / Public Domain
御三家とは何か
「御三家(ごさんけ)」とは、徳川将軍家の血筋を絶やさないための「予備の将軍候補」です。
•
尾張徳川家
(現・名古屋周辺): 61万石
•
紀伊徳川家
(現・和歌山周辺): 55万石
•
水戸徳川家
(現・水戸周辺): 35万石
もし将軍家に後継ぎが生まれなかった場合、この三家から次の将軍を選ぶ仕組みでした。
頼房はこの水戸徳川家の初代として、55万石の水戸藩を治めました。
頼房が光圀に与えた影響
江戸城——徳川幕府の中枢。頼房が属した御三家は、将軍家の後継断絶に備えた「将軍の予備」として江戸幕府を支えた
Wikimedia Commons / Public Domain
頼房は学問・芸術を大切にする藩主でした。その姿が息子・光圀に「学問の大切さ」を伝えたとされています。
光圀が17歳で史記を読んで感動し、日本史の編纂を志したのは、「学問を大切にする家風」があったからこそでした。
また頼房は水戸の地に茶道・能楽・書物を奨励し、文化的な環境を作りました。光圀はその環境の中で育ちました。
ゆかりの地を訪ねよう
水戸市には
水戸城跡
が残っており、頼房・光圀が治めた水戸藩の本拠地の面影を感じることができます。
また
水戸弘道館
(光圀の孫・斉昭が建設)は水戸学の精神を体現する国の特別史跡で、頼房から光圀へと受け継がれた学問の伝統を今に伝えています。
よくある質問
御三家はいつなくなったの?
御三家は江戸時代を通じて存続し、明治維新後に華族制度に組み込まれました。現在も旧藩主の子孫が各地に存在します。
水戸徳川家は将軍を出したの?
はい。第15代(最後の)将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が水戸徳川家出身です。大政奉還で江戸幕府を終わらせた最後の将軍が、光圀の家の末裔でした。
頼房は何歳で亡くなったの?
1661年、59歳で没しました。息子の光圀(1628-1701年)はその後も40年生きて、大日本史編纂を進めました。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
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この記事の人物
徳
徳川光圀
水戸藩第2代藩主・大日本史編纂
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詣
ゆかりの地を訪ねる
記事で読んだ歴史は、現地に立つとさらに深く実感できます。下のスポットや巡礼コースから、次の参拝先を選んでみませんか。
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巡礼コース
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