learn/[id]

時代
2 分で読める
ERA
高僧から倒幕のゲリラ武将へ——護良親王の戦い
後醍醐天皇の皇子・護良親王は、天台座主という仏教界の最高位にまで上った高僧だった。しかし父の倒幕計画に呼応して還俗し、吉野・熊野の山岳地帯でゲリラ戦を展開。各地の武士に令旨を発して蜂起を促し、鎌倉幕府崩壊の一因となった皇子の波乱の生涯を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
仏教界の頂点へ
還俗して倒幕戦へ
悲運の対立
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
後醍醐天皇肖像——護良親王の父。父の倒幕計画に呼応して、護良は高僧から武将へと転身した
Wikimedia Commons / Public Domain
「お坊さんが、よろいを着て山でゲリラ戦を戦う」——そんな異色の経歴を持つ皇子がいました。後醍醐天皇の息子・**護良親王(もりよし/もりながしんのう)**です。
仏教界の頂点へ
護良親王は後醍醐天皇の皇子として生まれ、若くして仏門に入りました。
優れた資質を持っていた護良は、**天台座主(てんだいざす)**にまで上りつめました。天台座主とは、比叡山延暦寺のトップであり、日本仏教界の最高位の一つです。本来なら、宗教界の頂点で生涯を送るはずの人物でした。
金峯山寺(奈良・吉野)——護良親王が倒幕のゲリラ戦を展開した吉野の山岳地帯の中心寺院
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
還俗して倒幕戦へ
しかし父・後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てると、護良親王の運命は大きく変わります。
護良は僧の身分を捨てて還俗(げんぞく、僧をやめて俗人に戻ること)し、武将として倒幕戦に身を投じました。
吉野・熊野・南伊勢などの険しい山岳地帯を拠点に、幕府の大軍を相手にゲリラ戦を展開しました。山の地形を活かした神出鬼没の戦いで、幕府軍を苦しめました。
さらに護良は、全国の武士に「令旨(りょうじ)」(倒幕を命じる文書)を発し、各地での蜂起を促しました。護良の精力的な活動は、楠木正成らの抵抗とともに、鎌倉幕府崩壊の大きな原動力となりました。
悲運の対立
吉野山(奈良)——護良親王がゲリラ戦の拠点とした険しい山岳地帯。後に南朝の本拠地ともなった
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1333年に鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まると、護良親王は征夷大将軍に任じられました。
しかし護良は、台頭する足利尊氏と激しく対立しました。「尊氏は危険だ」と警戒する護良と、武士の支持を集める尊氏。二人の対立は深まる一方でした。
この対立が、護良の悲劇的な最期につながっていきます(詳細は護良親王の最期の記事を参照)。
ゆかりの地を訪ねよう
護良親王を祀る鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)は、明治天皇の勅命で創建された神社です。護良親王が幽閉されたと伝わる土牢も境内にあります。
南朝ゆかりの金峯山寺(奈良県吉野町)も、護良が活動した吉野の中心地です。
護良親王のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
護良親王の名前は「もりよし」「もりなが」どちら?
両方の読みが使われます。歴史的には「もりよし」が有力とされますが、「もりなが」と読む資料もあります。
「令旨」とは何?
皇太子や親王が発する命令文書のことです。護良親王の令旨は、各地の武士に「天皇のために立ち上がれ」と倒幕を呼びかけるもので、源平合戦の以仁王の令旨と同様、武士蜂起の大義名分となりました。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
この記事は
♡ 役に立った
一 期 一 会
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード