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土牢に幽閉され斬られた皇子——護良親王の悲劇と鎌倉宮
倒幕の功労者だった護良親王は、足利尊氏との対立から父・後醍醐天皇に捕らえられ、鎌倉の土牢に一年以上幽閉された。1335年の中先代の乱の混乱の中、足利方によって暗殺された。享年28。悲運の皇子を祀る鎌倉宮の由来とともに、その最期を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
足利尊氏との対立
父に捕らえられる
中先代の乱と暗殺
鎌倉宮に祀られる
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
後醍醐天皇肖像——護良親王の父。足利尊氏の讒言を信じ、わが子を捕らえて足利方に引き渡した
Wikimedia Commons / Public Domain
倒幕の最大の功労者の一人でありながら、最も悲劇的な最期を遂げた皇子——それが**護良親王(もりよししんのう)**です。
足利尊氏との対立
1333年に鎌倉幕府が滅び、護良親王は征夷大将軍に任じられました。倒幕の功績にふさわしい地位でした。
しかし護良は、急速に勢力を伸ばす足利尊氏を強く警戒していました。「尊氏は必ず天皇に背く。今のうちに討つべきだ」と考えていたのです。
一方の尊氏も、自分を敵視する護良を危険視しました。二人の対立は、新政の中で深刻な火種となりました。
足利尊氏像(伝)——護良親王と激しく対立した武将。尊氏の讒言が護良の悲劇の発端となった
Wikimedia Commons / Public Domain
父に捕らえられる
尊氏は策略を巡らせました。「護良親王が天皇の位を狙っている」と後醍醐天皇に讒言(ありもしない罪の告げ口)したのです。
これを信じた後醍醐天皇は、自分の息子である護良親王を捕らえてしまいました。そして護良は、鎌倉にいる足利方(足利直義)に引き渡されました。
護良は、足利直義の屋敷の**土牢(つちろう、地下の牢屋)**に幽閉されました。光も差さない土の牢に、一年以上もの間、閉じ込められたのです。
中先代の乱と暗殺
金峯山寺(奈良・吉野)——護良親王が倒幕に身を投じた吉野の中心寺院。悲運の皇子の活躍を伝える地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1335年、「中先代の乱(なかせんだいのらん)」が起きました。北条氏の残党・北条時行が、鎌倉幕府復活を目指して挙兵し、鎌倉に迫ったのです。
足利直義は鎌倉から逃れることになりましたが、このとき「護良親王を北条方に奪われてはならない」と考えました。そして家臣・淵辺義博(ふちべよしひろ)に命じて、土牢の護良親王を暗殺させました。
護良親王、享年28歳。倒幕に最も貢献した皇子の一人が、味方であるはずの足利方によって、暗い土牢で命を落としたのです。
鎌倉宮に祀られる
明治時代になり、護良親王の悲劇が改めて注目されました。1869年、明治天皇の勅命によって、護良親王を祀る鎌倉宮(かまくらぐう)が創建されました。護良が幽閉された土牢の跡も、境内に残されています。
ゆかりの地を訪ねよう
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)は護良親王を祀る神社で、護良が幽閉されたと伝わる土牢があります。悲運の皇子をしのぶことができる場所です。
護良が倒幕戦を戦った吉野の金峯山寺(奈良県)も合わせて訪れたいスポットです。
護良親王のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
なぜ父・後醍醐天皇は息子を見捨てたの?
尊氏の讒言を信じたこと、そして当時の複雑な政治状況の中で護良を守りきれなかったことが理由とされます。後醍醐天皇にとっても苦渋の決断だった可能性があります。
中先代の乱とは何?
1335年、鎌倉幕府の執権だった北条氏の残党・北条時行が、幕府復活を目指して起こした反乱です。一時鎌倉を占拠しましたが、足利尊氏に鎮圧されました。この乱の混乱の中で護良親王は暗殺されました。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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