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土御門院完全ガイド——自ら望んで配流された承久の乱の温和な天皇
承久の乱(1221年)に関与しなかった土御門院(1196-1231)が、父・後鳥羽院、弟・順徳院との連帯のため自ら土佐への配流を願い出た稀有な天皇。土佐から阿波へ移配、35歳で配流地で死去、その血統が後嵯峨天皇として皇統の主流に戻るまでを完全解説。
目次
MOKUJI
温和な兄——政治的野心の欠如
自ら配流を願い出る——家族との連帯
土佐から阿波へ——比較的穏やかな流刑
阿波の歌と諦念の境地
35歳での死と子・後嵯峨天皇の即位
訪れたい場所
ゆかりのスポット一覧
よくある質問
結論から言うと、土御門院(つちみかどいん、1196-1231)は後鳥羽院の第一皇子で、承久の乱(1221年)に関与しなかったにもかかわらず父と弟順徳院との連帯のため自ら土佐への配流を願い出た稀有な天皇である。穏やかな性格で政治的野心に乏しく、父の急進的な倒幕計画に同調しなかったが、敗戦後の処分から免除されることを良しとせず、自発的に流刑を選んだ。土佐から阿波へ移配され、寛喜3年(1231年)35歳で配流地で死去。だが歴史の皮肉として、彼の子が後嵯峨天皇として即位し、土御門院の血統が皇統の主流に戻った。本記事では温和な皇子としての成育、承久の乱への不関与、自発的配流、土佐から阿波、子・後嵯峨即位までを完全解説する。
温和な兄——政治的野心の欠如
4歳即位、16歳で譲位
土御門院は建久六年(1196年)、後鳥羽院の第一皇子として生まれた。皇位継承順としては第一位だったが、性格が温和で政治的野心に乏しいとされ、四歳で即位したものの、十六歳で弟・順徳に皇位を譲った。
挙兵計画への不関与
承久の乱の挙兵計画にも、土御門院は加わっていなかった。父と弟の急進的な計画に、彼は同調しなかった——兵を挙げることの危うさを、彼ひとりが冷静に見ていたのかもしれない。父後鳥羽院・弟順徳院の急進派と対比されることが多い、慎重派の天皇。
自ら配流を願い出る——家族との連帯
幕府の処分免除提案
承久の乱の敗戦後、鎌倉幕府は土御門院については処分を見送ろうとした。彼は乱に関与していない。だから配流の必要はない——それが幕府の判断だった。
「父と弟が遠島に流されているのに」
ところが土御門院は、これを拒否した。「父と弟が遠島に流されているのに、自分だけが京に残るのは耐えられない」と、彼は自ら配流を願い出た。この申し出に対し、幕府は土佐への配流を許可した。家族との連帯を選んだ天皇——これは日本史でも稀有な決断である。
土佐から阿波へ——比較的穏やかな流刑
1221年・土佐配流
土御門院は土佐国(高知県)に配流された。配流地は土佐国畑山(現在の南国市岡豊町岡豊)とされる。一行は東山道・南海道を経て土佐に至った。しかし土佐は遠すぎる——幕府はすぐに気づいた。京から見ると、隠岐より遠い土佐は、流刑地としても過酷すぎた。
阿波国守北郡池田への移配
間もなく阿波国(徳島県)への移配が決まり、土御門は阿波国守北郡池田(徳島県三好市池田)に移された。阿波での土御門院の生活は、比較的穏やかだったとされる。彼は和歌を詠み、仏典を読み、地元の人々とも穏やかに交流した。父や弟ほどの強烈な怨念を残さず、流刑地に静かに溶け込んでいった。
阿波の歌と諦念の境地
静かな調子の歌
『土御門院御集』には、阿波期の歌も収められている。父や弟の歌のような激情ではなく、もう少し諦念に満ちた、穏やかな調子の歌が多い。
月をのみ待ちつる人にしらせばや 雲こそたえて空はれにけれ
流刑地の生活を受け入れる
(月ばかり待っていた人に知らせたい、雲がついに切れて空が晴れたよ)この一首には、土御門院の人柄がよく出ている。劇的でなく、ただ静かに自然を愛でる——流刑地の生活を、彼はそのように生きた。怨霊化せず、絶食死もせず、彼は流人として静かに余生を送った。
35歳での死と子・後嵯峨天皇の即位
1231年の崩御
寛喜三年(1231年)、土御門院は阿波の配流地で崩御。享年三十七。父・後鳥羽院よりも、弟・順徳院よりも早い死だった。彼の遺骸は阿波で火葬され、その後京の長楽寺(現在の京都市東山区)に納められた。土御門院の御陵として、京都市右京区の金原陵(かねはらのみささぎ)に伝えられている。
1242年・後嵯峨天皇即位
土御門院の死後十年、彼の子の邦仁王が後嵯峨天皇として即位した(1242年)。順徳院系を退けた幕府が、温和だった土御門院の系統を選んだのである。歴史の皮肉として、自ら配流を願い出た兄の血統が、後の天皇家の主流となった。土御門院の選択——父と弟への連帯のため自ら流刑を選んだ——は、結果として彼の子孫を皇統の中央に押し戻した。家族への愛情が、政治的にも報われた珍しい例である。
訪れたい場所
土御門天皇火葬塚(徳島県鳴門市)——阿波での火葬地と伝わる
金原陵(京都市右京区)——京の御陵
池田の御所跡(徳島県三好市)——阿波での御所跡
岡豊城跡近辺(高知県南国市)——土佐配流地の伝承
ゆかりのスポット一覧
関連人物:後鳥羽院源実朝土御門院
よくある質問
自ら配流を願い出た理由は?
「父と弟が遠島に流されているのに、自分だけが京に残るのは耐えられない」という家族への連帯感から、土御門院は自発的に流刑を選びました。乱に無関係で処分免除されようとしていた点を考えると、極めて稀な道徳的選択。日本史で類例が少ない事例です。
なぜ「土御門」と呼ばれる?
天皇の在位中の名は「土御門天皇」、退位後は「土御門上皇」、諡(おくりな)は「土御門院」。「土御門」は彼の御所が京都の土御門大路にあったことに由来。同名の摂関家・土御門家とは別系統で、混同しやすいので注意。
土佐から阿波へなぜ移配?
土佐(現高知県)は京から見て山陽・四国を経由し最遠の地で、流刑地としては過酷すぎると判断されたため。阿波(現徳島県)は京から比較的近く、瀬戸内海路でアクセス容易な地。幕府の処分の苛烈さは、当人の性格・関与度合いで調整されました。
子・後嵯峨天皇の即位はどんな意味?
幕府が順徳院系統を排除し、温和だった土御門院系統を選んだ象徴的事件。これ以後、皇統は土御門院系=持明院統(後の北朝)と亀山天皇系=大覚寺統(後の南朝)に分裂、南北朝時代の遠因となります。
阿波での御所跡は見学可能?
徳島県三好市池田町には「土御門院御所跡」「池田御所」と伝わる地が複数あり、地元の歴史資料館で確認できます。観光地化はされていない素朴な伝承地で、流人天皇の最期の地を静かに偲べる場所です。
最終更新: 2026年5月2日
土御門院肖像——自ら配流を願い出た温和な歌帝
Wikimedia Commons / Public Domain
阿波(徳島県)の山里——土御門院が10年を過ごした穏やかな配流地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
土佐(高知県)——最初に土御門が配流された地、すぐに阿波へ移配
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
後嵯峨天皇——土御門院の子、自ら配流を願った父の血統が皇統に戻った
Wikimedia Commons / Public Domain
徳島・土御門天皇火葬塚——阿波での火葬地と伝わる
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
── 了 ──
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