土佐は険しい山地+太平洋の三重の隔絶で「遠流」、阿波は瀬戸内海路でアクセスでき「中流」程度の処分。同じ南海道でも処分の重さが違いました。土御門院が土佐から阿波へ移配されたのも、土佐が過酷すぎたためです。
高知県南国市岡豊に源希義墓と伝わる地がある。香南市の介良(けら)に「希義神社」もあり、頼朝の弟として20年間の土佐流刑生活と1180年の悲劇的最期が伝えられる土佐随一の中世史跡。頼朝が京とは異なるルートで歴史を作る運命と対照的。
徳島県三好市池田町にあり、土御門院10年の流刑生活と崩御の地。1231年に阿波で火葬され、火葬塚は徳島県鳴門市の池田町に伝わる。京の金原陵とともに、自ら配流を望んだ温和な天皇の最期の地として価値を持つ。
直接の歴史的関係はないが、両者とも四国の山中で「罪」と向き合う文化として通底。遍路は罪を背負って巡礼、流人は罪を着せられて山中に幽閉、という共通点があり、現代の四国観光では両者を意識した歴史散策ルートが組まれることもあります。
1242年の四条天皇早世時、幕府は順徳院系統(順徳の子・忠成王)を排除し、温和だった土御門院系統(子・邦仁王=後嵯峨天皇)を選びました。自ら配流を望んだ兄の血統が結果として皇統の主流に戻った歴史の皮肉として知られます。