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九州統一を目前にした四兄弟——島津氏と薩摩の雄飛
戦国時代、島津義久・義弘ら「四兄弟」は薩摩から勢力を広げ、九州統一を目前にまで迫った。1587年に豊臣秀吉の大軍に屈したが、薩摩・大隅を維持して幕末まで存続。関ヶ原での「島津の退き口」など、薩摩隼人の武勇で知られた島津氏の興亡を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
島津四兄弟
九州制覇への道
秀吉の九州攻め
薩摩隼人の武勇は続く
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
島津義弘像——島津四兄弟の次男で軍事の中心。関ヶ原の「島津の退き口」の敵中突破で武名を轟かせた
Wikimedia Commons / Public Domain
戦国時代の九州で、あと一歩で全土統一を成し遂げそうになった一族がいました。薩摩(現在の鹿児島県)の**島津氏(しまづし)**です。
島津四兄弟
島津氏は鎌倉時代以来、薩摩・大隅・日向(鹿児島・宮崎一帯)を治めてきた名門大名です。
戦国時代、島津氏には優れた四人の兄弟がいました。
兄弟
役割
長男・義久(よしひさ)
当主・全体の統率
次男・義弘(よしひろ)
軍事の中心・猛将
三男・歳久(としひさ)
知略
四男・家久(いえひさ)
戦術の天才
この「島津四兄弟」が力を合わせ、九州統一に向けて勢力を拡大しました。
照国神社(鹿児島)——島津家ゆかりの神社。薩摩を治めた島津氏の歴史を今に伝える
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
九州制覇への道
島津氏は各地で勝利を重ねました。
1578年の耳川の戦いでは、九州最大の大名だった大友氏を破り、豊後(大分県)方面へ進出。さらに肥前(佐賀県)の龍造寺氏も破り、九州の大半を勢力下に置きました。
「島津に暗君(無能な君主)なし」と言われるほど、四兄弟は揃って優秀でした。九州統一は目前に迫っていました。
秀吉の九州攻め
関ヶ原の戦い——島津義弘が西軍敗北の中、敵の徳川本隊正面を突破して退却した「島津の退き口」の舞台
Wikimedia Commons / Public Domain
しかし、ここで天下統一を進める豊臣秀吉が立ちはだかりました。
1587年、秀吉は20万を超える大軍を九州に送り込みました。さすがの島津も、天下人の大軍には抗しきれず降伏。九州統一の夢は絶たれ、薩摩・大隅などに領地を削られました。
薩摩隼人の武勇は続く
降伏後も島津氏は薩摩で存続しました。特に有名なのが、1600年の関ヶ原の戦いでの**「島津の退き口(しまづののきぐち)」**です。
西軍として参戦した島津義弘は、西軍敗北の中、わずかな手勢で敵の徳川軍の正面を突破して退却するという離れ業をやってのけました。この決死の敵中突破は「島津の退き口」として武勇伝に残ります。
島津氏はその後、薩摩藩として幕末まで存続し、明治維新では西郷隆盛・大久保利通らを輩出して、新時代の主役となりました。
ゆかりの地を訪ねよう
鹿児島市の照国神社は島津家ゆかりの神社で、幕末の名君・島津斉彬を祀っています。島津氏の歴史を感じられるスポットです。
関ヶ原の戦いの舞台関ケ原古戦場(岐阜県)も、「島津の退き口」ゆかりの地です。
島津義弘のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
「島津の退き口」はなぜ有名なの?
普通、負け戦では敵に背を向けて逃げます。しかし島津義弘は、あえて敵の最強部隊(徳川本隊)の正面を突き破って退却しました。この常識を覆す決死の戦法が「敵中突破」として後世に語り継がれています。
薩摩藩は明治維新でどんな役割を果たした?
薩摩藩は長州藩とともに倒幕の中心となりました。西郷隆盛・大久保利通・東郷平八郎など、明治維新と明治政府を動かした多くの人物を輩出しました。島津四兄弟の武勇の伝統が、幕末にも受け継がれたと言えます。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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この記事の人物
島津義弘
鬼島津
ゆかりの地を訪ねる
記事で読んだ歴史は、現地に立つとさらに深く実感できます。下のスポットや巡礼コースから、次の参拝先を選んでみませんか。
1. 照国神社
幕末の開明君主・島津斉彬を照國大明神として祀る鹿児島最大の神社・西郷隆盛が生涯敬い続けた
2. 関ヶ原古戦場
慶長5年(1600年)9月15日…
巡礼コース
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