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関ヶ原の戦いの地——東西両軍の陣跡を歩く
慶長五年(1600年)九月十五日に決戦が行われた関ヶ原は、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した天下分け目の戦場である。古戦場跡・各武将の陣跡・岐阜城・南宮大社など五つの史跡を通じて、戦いの経過と結果が日本史に与えた意味を辿る。
目次
MOKUJI
関ヶ原の戦い——天下分け目の一日
岐阜城——西軍に奪われ東軍が奪還した要衝
南宮大社——西軍の毛利秀元が動かなかった場所
東西両軍の布陣比較
大垣城と関ヶ原前夜
竹中氏陣屋と関ヶ原に関連する寺院群
参拝時のポイント
戦後処理——関ヶ原が決定した大名の版図
よくある質問
関ヶ原の戦い——天下分け目の一日
慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ケ原町)において、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成・大谷吉継らが組織した西軍の間で決戦が行われた。戦闘は一日で決着し、西軍の主力が敗走したことで徳川による天下統一への道が開かれた。
関ヶ原古戦場は現在も田畑の広がる盆地であり、各武将の陣跡が案内板とともに点在する。石田三成の笹尾山陣跡、東軍総大将・家康の床几場(本陣跡)、小西行長陣跡、宇喜多秀家陣跡などが徒歩圏内に収まっており、実際に歩くことで地形と布陣の関係を体感できる。
戦闘の帰趨を決定したのは、西軍に属しながら開戦後に東軍へ寝返った小早川秀秋の行動であった。小早川が松尾山から大谷吉継の陣に突撃した時点で、西軍の戦線は瓦解した。小早川の裏切りが事前に調略されたものか、戦況を見た日和見であったかは史料上も議論がある。
岐阜城——西軍に奪われ東軍が奪還した要衝
岐阜城は金華山(標高329メートル)の頂上に位置する山城で、信長が永禄十年(1567年)に斎藤龍興から奪取して「岐阜」と改名した城として知られる。しかし関ヶ原前夜においては、信長の孫・織田秀信(=三法師)が城主として西軍に与していた。
慶長五年(1600年)八月、関ヶ原本戦に先立つ前哨戦として、東軍の福島正則・池田輝政らが岐阜城を攻略し秀信を降伏させた。岐阜城陥落は西軍にとって心理的打撃となり、家康の東上を容易にした。現在の天守閣は昭和31年(1956年)の復興建築であるが、山頂からは濃尾平野が一望でき、要衝としての地理的価値は現地で実感できる。
南宮大社——西軍の毛利秀元が動かなかった場所
南宮大社は不破郡垂井町に鎮座する式内社(名神大社)で、金山彦命を祭神とする。関ヶ原の戦いにおいて、南宮大社の周辺に西軍の毛利秀元・吉川広家の軍が布陣した。
吉川広家は事前に東軍と内通しており、毛利本軍が戦場へ出陣しないよう工作していたとされる。毛利の「不戦」は西軍にとって致命的であった。戦後、関ヶ原での不戦を条件に毛利家の存続が認められたが、120万石から36万石余への大幅減封を受けた。
南宮大社は現存する社殿が慶長十七年(1612年)焼失後、徳川家光の命によって慶安元年(1648年)に再建されたものであり、重要文化財に指定されている。関ヶ原合戦直後の復興期の建築として、徳川支配下の宗教政策の一端を示す事例でもある。
東西両軍の布陣比較
勢力
主要武将
布陣地点
兵数(推定)
東軍
徳川家康、福島正則、黒田長政ら
桃配山→関ヶ原盆地
約75,000
西軍
石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継ら
笹尾山・天満山・藤古川沿い
約82,000
西軍(不動)
毛利秀元・吉川広家
南宮山
約30,000
兵数は後世の軍記物と現代研究者の試算に基づくものであり、確定数値ではない。西軍が数の上では優勢でありながら敗北した最大の原因は、吉川の工作による毛利軍の不戦と小早川秀秋の裏切りにある。
大垣城と関ヶ原前夜
大垣城は石田三成が西軍の拠点として使用した城であり、関ヶ原本戦前夜まで三成の本営が置かれていた。慶長五年九月十四日の夜、三成は家康の夜間奇襲を恐れて全軍を大垣城から関ヶ原へ移動させた。この「夜の移動」が翌朝の布陣の混乱につながったとする評価もある。
現在の大垣城天守は昭和二十一年(1946年)の空襲で焼失した後、昭和三十四年(1959年)に復元されたものである。城内の博物館では関ヶ原に関連する資料を展示しており、本戦前夜の経緯を理解するうえで有益である。
竹中氏陣屋と関ヶ原に関連する寺院群
鶏足寺(旧飯福寺)は、滋賀・湖北に位置する古刹である。関ヶ原の合戦場からは離れるが、西軍参加武将ゆかりの地として知られ、戦国末期から江戸初期にかけての歴史的文脈を伝える。
参拝時のポイント
関ヶ原古戦場は決戦地の石碑を中心に、各陣跡が徒歩・自転車でまわれる。「関ヶ原古戦場記念館」は令和2年(2020年)に開館した比較的新しい施設で、CGや模型を用いた展示が充実している
岐阜城への登城はロープウェイ利用が便利(徒歩登山も可)。城内からの眺望は、なぜここが戦略的要衝だったかを直感的に理解させてくれる
南宮大社は関ヶ原ICから車で約10分。社殿は徳川時代の再建だが、境内の静寂は「動かなかった毛利軍」の陣地跡という歴史的文脈の中で体感したい
大垣城はJR大垣駅から徒歩約10分。天守内の関ヶ原関連展示を事前に確認すること
鶏足寺は湖北・木之本にある。秋の石段と紅葉で有名だが、参拝は事前の情報確認を勧める
戦後処理——関ヶ原が決定した大名の版図
関ヶ原の戦い後、徳川家康は東軍に味方した大名を加増し、西軍に与した大名を改易・減封した。この「論功行賞」によって全国の大名配置が大幅に塗り替えられ、徳川支配の基盤が確立された。南宮大社の社殿が徳川時代に再建されたことも、こうした戦後の秩序再編の一環として位置づけることができる。関ヶ原古戦場を訪れる際には、この戦いが単なる軍事的決戦ではなく、その後260年にわたる幕藩体制の原点であったことを意識したい。
よくある質問
関ヶ原の戦いで西軍が負けた本当の理由は何か
通説では小早川秀秋の裏切りが決定打とされるが、構造的な原因として以下が指摘される。第一に、西軍は豊臣奉行衆(石田三成ら)と有力大名(毛利・宇喜多ら)の連合体であり、指揮系統が統一されていなかった。第二に、事前の調略によって複数の西軍武将が東軍と内通していた。小早川の「裏切り」はその象徴であったが、吉川広家の工作による毛利の不戦も同様に決定的であった。
石田三成はなぜ嫌われていたのか
三成は豊臣秀吉の奉行として行政・補給を担ったが、その厳格な管理・査察姿勢は武功派大名(加藤清正・福島正則ら)との摩擦を生んだ。「文治派」と「武断派」の対立は秀吉晩年から顕在化しており、三成は文治派の象徴として武断派の怨嗟を買っていた。関ヶ原で三成が西軍を率いたことに対して、武断派の多くが東軍につく遠因となった。
関ヶ原の戦いはなぜ一日で決着したのか
九月十五日の朝、両軍は霧の中で対峙した。霧が晴れた後に戦闘が始まり、小早川の裏切りが午後早い時間帯に起きたとされる。その後、西軍の主力は急速に崩壊した。戦闘時間は諸説あるが、正午前後までには大勢が決したと考えられている。決戦が短時間で決着したのは、複数の武将が事前調略によって東軍側についていたため、西軍が組織として機能しなかったことが最大の要因である。
最終更新: 2026年5月
岐阜城——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
南宮大社——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
大垣城——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
華厳寺——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
徳川家康——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
石田三成——関ヶ原の戦いの地にゆかりの寺社
Wikimedia Commons / Public Domain
── 了 ──
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