通説では小早川秀秋の裏切りが決定打とされるが、構造的な原因として以下が指摘される。第一に、西軍は豊臣奉行衆(石田三成ら)と有力大名(毛利・宇喜多ら)の連合体であり、指揮系統が統一されていなかった。第二に、事前の調略によって複数の西軍武将が東軍と内通していた。小早川の「裏切り」はその象徴であったが、吉川広家の工作による毛利の不戦も同様に決定的であった。
三成は豊臣秀吉の奉行として行政・補給を担ったが、その厳格な管理・査察姿勢は武功派大名(加藤清正・福島正則ら)との摩擦を生んだ。「文治派」と「武断派」の対立は秀吉晩年から顕在化しており、三成は文治派の象徴として武断派の怨嗟を買っていた。関ヶ原で三成が西軍を率いたことに対して、武断派の多くが東軍につく遠因となった。
九月十五日の朝、両軍は霧の中で対峙した。霧が晴れた後に戦闘が始まり、小早川の裏切りが午後早い時間帯に起きたとされる。その後、西軍の主力は急速に崩壊した。戦闘時間は諸説あるが、正午前後までには大勢が決したと考えられている。決戦が短時間で決着したのは、複数の武将が事前調略によって東軍側についていたため、西軍が組織として機能しなかったことが最大の要因である。