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「歌の道は天皇にも従わない」——藤原定家と後鳥羽上皇の対立
「新古今和歌集」の編纂をめぐり、藤原定家は後鳥羽上皇と対立した。上皇は定家の選んだ歌を勝手に変更し、定家に服従を求めたが、定家は自身の美学を曲げなかった。日記『明月記』に「歌道は天皇にも従わない」と記した、芸術家としての定家の矜持を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
新古今和歌集の編纂
美学をめぐる衝突
二人のその後
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
王朝の宮廷文化——定家と後鳥羽上皇は新古今和歌集の選歌をめぐり激しく対立した
Wikimedia Commons / Public Domain
「天皇の命令でも、芸術については曲げない」——こう言い切った歌人がいました。藤原定家です。
相手は当時の最高権力者・後鳥羽上皇。その対立は、芸術家の矜持を示す逸話として語り継がれています。
新古今和歌集の編纂
1205年、後鳥羽上皇の命によって「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」が編纂されました。藤原定家は、その撰者(選定する人)の一人に任命されました。
ところが、後鳥羽上皇自身も和歌に深い造詣を持ち、編纂に積極的に関与しました。上皇は、定家ら撰者が選んだ歌を、後から勝手に削除したり変更したりしたのです。
承久の乱——後鳥羽上皇は1221年に幕府に敗れ隠岐へ流された。上皇の退場後、定家は歌壇の第一人者となった
Wikimedia Commons / Public Domain
美学をめぐる衝突
定家には、譲れない美意識がありました。「有心(うしん)」——歌に深い情趣・余情を込めるべきだという美学です。
上皇の好みと定家の美学は、しばしば食い違いました。上皇は「歌道においても朕(天皇)に従え」と定家に迫りました。
しかし定家は、政治的には上皇に従っても、芸術については自分の信念を曲げませんでした。
定家は自身の日記「明月記(めいげつき)」に、その決意を記しています。「公事(政治)は天子(天皇)に従う。しかし歌道(和歌の道)は然らず(そうではない)」。
「政治では天皇に従う。でも芸術については、天皇にも従わない」——芸術家としての強烈なプライドの表明でした。
二人のその後
百人一首の歌人——芸術への信念を貫いた定家は、後に小倉百人一首を選び和歌の古典を後世に伝えた
Wikimedia Commons / Public Domain
定家と後鳥羽上皇の関係は、その後さらに悪化しました。定家は一時、上皇の怒りを買って謹慎を命じられたこともありました。
1221年、後鳥羽上皇は承久の乱を起こして鎌倉幕府に敗れ、隠岐島に流されました。皮肉にも、上皇が政治の舞台から去った後、定家は歌壇の第一人者として確固たる地位を築きました。
定家は後に「小倉百人一首」を選び、和歌の古典を後世に伝える大きな役割を果たしました。芸術への信念を貫いた定家の姿勢が、日本文学に豊かな遺産を残したのです。
ゆかりの地を訪ねよう
定家が和歌の道を歩んだ京都・嵯峨野には常寂光寺など定家ゆかりの寺社があります。
後鳥羽上皇も関わった新古今和歌集の王朝文化を感じるなら平等院(京都府宇治市)も訪れたいスポットです。
藤原定家のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
「明月記」とはどんな史料?
藤原定家が約56年間にわたって書き続けた日記です。和歌のことだけでなく、当時の政治・天変地異(オーロラや彗星の記録もある)まで記され、当時を知る貴重な一次史料として高く評価されています。
新古今和歌集はどんな歌集?
後鳥羽上皇の命で編纂された8番目の勅撰和歌集です。幽玄・余情を重んじる繊細優美な歌風で知られ、「古今和歌集」と並ぶ和歌の最高峰の一つとされます。
最終更新日:2026年6月3日
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