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夜襲で大軍を破った「相模の獅子」——北条氏康と河越夜戦
小田原を本拠とした後北条氏の三代目・北条氏康は、1546年の河越夜戦で約8千の兵で8万余の連合軍を夜襲で破り、「相模の獅子」と称された。検地・税制改革など善政でも知られた氏康の知略と、後北条氏の関東支配を解説する。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
後北条氏とは
河越夜戦——8千対8万の奇跡
善政の名君でもあった
後北条氏の最期
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
小田原城(神奈川)——後北条氏の本拠地。氏康の時代には難攻不落の名城として関東に君臨した
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「8千の兵で8万の大軍を破る」——戦国時代でも屈指の劇的な逆転劇が、関東で起きていました。
成し遂げたのは北条氏康(ほうじょううじやす)。小田原を本拠とした後北条氏の三代目です。
後北条氏とは
後北条氏は、戦国時代に関東一円を支配した大名です。鎌倉幕府の執権・北条氏とは別の家系で、初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が戦国時代の幕開けに台頭しました。
氏康はその三代目。祖父・早雲、父・氏綱が築いた基盤を受け継ぎ、後北条氏の最盛期を築きました。本拠地は難攻不落で知られる小田原城(神奈川県)です。
小田原城の常盤木門——後北条氏五代の関東支配を支えた城郭。氏康はここから関東一円に号令した
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
河越夜戦——8千対8万の奇跡
1546年、氏康は絶体絶命の危機に陥りました。
後北条氏の重要拠点・河越城(現在の埼玉県川越市)が、関東管領・上杉氏を中心とする約8万の連合軍に包囲されたのです。城を守るのはわずか3千の兵。さらに援軍に向かえる氏康の兵も8千ほどしかいません。
普通なら勝ち目はありません。しかし氏康は奇策を用いました。
まず連合軍に「降伏したい」と弱気を装い、油断させました。そして油断しきった連合軍に対し、夜陰に乗じて奇襲をかけたのです。
突然の夜襲に8万の大軍は大混乱。同士討ちも起き、総崩れとなりました。氏康はこの「河越夜戦(かわごえよいくさ)」で関東の覇権を確立し、「相模の獅子」「関東の獅子」と称えられました。
善政の名君でもあった
小田原城天守——「相模の獅子」北条氏康が善政と知略で関東に築いた後北条氏の象徴
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
氏康は戦の天才であるだけでなく、優れた為政者でもありました。
検地:領内の土地を正確に測量し、公平な税の基礎を作った
税制改革:複雑だった税を整理し、民の負担を軽減した
目安箱の設置:領民の訴えを直接聞く仕組みを作った(徳川吉宗より約170年も早い)
これらの善政により、後北条氏の領国は安定し繁栄しました。「戦も上手いが、民を治めるのも上手い」名君でした。
後北条氏の最期
氏康の死後、後北条氏は孫の氏直の代に豊臣秀吉と対立。1590年の小田原攻めで秀吉の大軍に包囲され、約100日の籠城の末に降伏し、後北条氏は滅亡しました。
ゆかりの地を訪ねよう
小田原城(神奈川県小田原市)は後北条氏の本拠地です。氏康の時代には難攻不落の名城として知られ、現在は天守閣が復元されています。
河越夜戦の舞台・川越城(埼玉県川越市)も合わせて訪れたいスポットです。
北条氏康のゆかりの地一覧でほかのスポットも確認してください。
よくある質問
鎌倉時代の北条氏と後北条氏は同じ?
別の家系です。鎌倉幕府の執権・北条氏(北条政子・北条義時の一族)と、戦国時代の後北条氏(北条早雲の一族)は血縁関係がありません。後北条氏は名門・北条氏の名にあやかって「北条」を名乗りました。
河越夜戦の兵力差は本当に8千対8万?
史料によって数字に差があり、誇張の可能性もあります。ただし「圧倒的に不利な兵力差を夜襲の奇策で覆した」という大筋は史実とされ、日本三大夜戦の一つに数えられます。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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