文禄4年(1595年)6月、秀次は突如として謀反・淫乱・殺生の罪で告発された。明確な証拠は示されず、告発の背後には石田三成ら秀吉側近の政治工作があったとする説が根強い。7月15日(旧暦)、秀次は出家を余儀なくされ、高野山へと追放された。
高野山は弘法大師・空海が開いた真言宗の聖地であり、時の権力者が隠棲・蟄居する場としても使われた。秀次は金剛峯寺の一室(柳の間と伝わる)に軟禁され、8月2日(旧暦)、秀吉からの使者が到着した。命令は明確だった——切腹せよ、と。
享年28。在職わずか4年の第二代関白は、叔父の命によって高野山の山中に散った。
秀次切腹の直後、その妻妾・子女・侍女ら30余名が京都の三条河原に引き出され、公開処刑された。乳飲み子も例外ではなかった。この惨劇は当時の公家日記にも「前代未聞」「見るも無残」と記録されており、秀吉の晩年の残忍さを象徴する出来事として後世に語り継がれることになった。
秀次の首は三条河原に晒され、石塔とともに「畜生塚」と刻まれた石碑が立てられたとも伝わる。秀吉が生前最も愛し、後継者として育てた甥への、この仕打ちは何を意味するのか。多くの歴史家が「秀頼への道を拓くための政治的殺人」と結論づけている。