豊臣秀長は天文9年(1540年)頃、尾張中村に生まれた。幼名を「小一郎」といい、兄の木下藤吉郎(後の秀吉)が織田信長に仕え始めると、弟もその傍らで働き始めた。兄が前線で武功を立てる傍ら、秀長は兵站の確保・諸将との折衝・占領地の統治という「裏方仕事」を黙々とこなし続けた。
天正13年(1585年)、四国攻めの総大将を務めた秀長は、平定後に大和郡山城に入る。大和・紀伊・和泉100万石余を治め、大名としての地位を確立した。翌年の九州平定では日向方面の軍を率い、島津氏を降伏させる一因をも担った。
秀長の特質を示す逸話がある。諸大名が「秀吉への陳情が難しい」と感じると、秀長を通じて話を通したという。兄の激情を和らげ、諸将の不満を吸収し、敵対勢力との交渉を穏便に収める——秀長は言わば豊臣政権の**「緩衝材」**だった。
大和郡山城は、秀長が大和国の拠点として整備した城郭だ。天正13年から天正19年(1591年)に秀長が没するまで、この城は近畿・西国を結ぶ政治的要衝として機能した。秀長は城下町の整備にも力を注ぎ、商工業者を集めて城下を繁栄させた。
現在も大和郡山市に石垣と堀が残り、城跡は公園として整備されている。大河ドラマ放映を機に注目が高まる同城は、秀長の業績を体感できる第一のゆかりの地だ。