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鎌倉幕府の滅亡——元弘の変・新田義貞が辿った史跡参拝ガイド
1333年、後醍醐天皇の倒幕計画(元弘の変)に呼応した新田義貞が鎌倉を攻め、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。その経緯と鎌倉に残るゆかりの史跡を参拝ルートとともに解説する。
目次
MOKUJI
鎌倉幕府滅亡の経緯
幕府滅亡にゆかりの鎌倉の史跡
元弘の変ゆかりの地を巡る参拝コース
よくある質問
源頼朝像——鎌倉幕府を開いた武家政権の創始者、1333年に滅んだ幕府の原点
Wikimedia Commons / Public Domain
1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞率いる軍勢が鎌倉に突入し、北条高時以下北条一族の多くが自害した。こうして1185年(または1192年)の源頼朝による武家政権樹立以来、約150年にわたって東国を支配し続けた鎌倉幕府は滅亡した。 この歴史的転換点の背景には、後醍醐天皇の執拗な倒幕計画があった。鎌倉の街そのものが、幕府滅亡の舞台であり、今もその痕跡を随所に残している。建長寺円覚寺鶴岡八幡宮宝戒寺を巡ることで、滅亡の前後を生きた人々の痕跡をたどることができる。
鎌倉幕府滅亡の経緯
後醍醐天皇の倒幕計画(元弘の変)
後醍醐天皇は、摂関政治・武家政治によって天皇親政が形骸化した状況を打破しようとした。1331年(元弘元年)、倒幕計画が発覚し、後醍醐天皇は笠置山(京都府)に脱出したが、幕府軍に攻められて捕らえられ、翌年に隠岐島へ流された。これを「元弘の変」という。
建長寺——北条氏が保護した鎌倉五山第一位の禅刹、幕府滅亡の現場に近い
Wikimedia Commons / CC BY 2.0
しかし後醍醐天皇は1333年3月に隠岐を脱出し、伯耆(現在の鳥取県)の豪族・名和長年を味方に付けて挙兵した。幕府は六波羅探題(京都の幕府機関)を通じて討伐軍を送ったが、その将・足利高氏(後の尊氏)が途中で後醍醐方に寝返った。この裏切りにより六波羅探題は滅亡し、幕府の権威は一気に失墜した。
新田義貞の鎌倉攻め(1333年)
足利高氏の離反と同じ頃、関東では上野国(現在の群馬県)の豪族・新田義貞が挙兵した。義貞は1333年5月8日に生品神社(現在の太田市)で旗揚げし、わずか2週間で大軍を率いて南下、鎌倉を包囲した。
鎌倉は三方を山に囲まれた天然の要害であり、東の六浦口・西の極楽寺口・北の化粧坂切通という三方向の入口を守っていた。義貞の軍は攻略に手こずったが、義貞自らが稲村ヶ崎の海岸を徒歩で渡ったとされる(「稲村ヶ崎の奇跡」。引き潮で浜が露出したとも、黄金の剣を海に投じたとも伝わる)。これにより鎌倉への突入路が開かれた。
幕府最後の日
1333年5月22日、新田軍が鎌倉に突入した。最後の執権・北条高時は部下・腹心たちと東勝寺(現在の鎌倉市小町)に籠もり、自害した。一族や家臣も次々と自害し、その数は800名とも900名ともいわれる。こうして1185年(または1192年)以来、約150年にわたる北条氏を中心とした武家政権は終わりを告げた。
幕府滅亡にゆかりの鎌倉の史跡
円覚寺——北条時宗が元寇後に創建した鎌倉五山第二位、北条一族の菩提寺的存在
Wikimedia Commons / CC BY-SA
スポット
ゆかり
見どころ
建長寺
北条氏が保護した最高の禅刹
伽藍・境内の規模、半僧坊
円覚寺
北条時宗創建、北条一族の菩提寺的存在
三門・舎利殿・境内
鶴岡八幡宮
幕府の総鎮守、歴代執権が崇敬
本宮・大石段・境内
宝戒寺
北条一族滅亡後に菩提寺として創建
本堂・境内(萩の名所)
頼朝の墓(白旗神社)
幕府創設者の墓所
宝篋印塔・白旗神社
建長寺・円覚寺(最後の執権が籠もった場所)
建長寺は1253年(建長5年)創建で、北条時頼が中国から招いた蘭渓道隆を開山とする鎌倉五山第一位の禅刹。北条氏歴代の崇敬を受け、幕府直轄の寺院として繁栄した。1333年の幕府滅亡の際、北条一族の一部はこの境内に逃れたとされる。現在の境内は当時の規模の一部だが、伽藍の壮大さは当時の権勢を今に伝えている。
円覚寺は1282年(弘安5年)に第8代執権・北条時宗が元寇で亡くなった将士を弔うために創建した鎌倉五山第二位の禅刹。北条一族の帰依が厚く、歴代執権の位牌を祀る「東慶寺」など関連寺院も多い。幕府滅亡時、北条一族は円覚寺方面にも逃れたと伝わる。
鶴岡八幡宮(幕府の総鎮守)
宝戒寺——幕府滅亡後、北条一族の菩提を弔うために後醍醐天皇の命で創建
Wikimedia Commons / CC BY-SA
鶴岡八幡宮は源頼朝が1180年に遷座した武家の総鎮守で、歴代執権・将軍も崇敬した。1219年(承久元年)には境内で3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されるという衝撃的な事件が起きた。この事件は鎌倉幕府の後継問題を深刻にし、北条氏執権政治確立の決定的なきっかけとなった。幕府滅亡後も鶴岡八幡宮は鎌倉の宗教的・象徴的中心であり続け、現在に至るまで鎌倉最大の神社として年間多くの参拝者を集めている。
宝戒寺(北条一族の菩提寺)
宝戒寺は幕府滅亡後の1334年(建武元年)、後醍醐天皇の命により足利尊氏が創建した天台宗の寺院。北条一族の霊を弔い、菩提を供養するために建てられた。北条氏の屋敷跡に建立されたとも伝わり、境内には滅亡した一族への鎮魂の思いが込められている。秋の萩の名所としても有名で、毎年秋には「萩まつり」が行われる。鎌倉・江ノ島七福神では毘沙門天を祀る(/course/kamakura-enoshima-shichifukujin 参照)。
元弘の変ゆかりの地を巡る参拝コース
鶴岡八幡宮——源実朝暗殺の舞台にもなった幕府の総鎮守
Wikimedia Commons / Public Domain
鎌倉幕府滅亡の歴史を追うなら、以下のコースが効率的だ。
順序
スポット
移動方法
見どころ
1
円覚寺
北鎌倉駅からすぐ
北条時宗創建、五山第二位の伽藍
2
建長寺
徒歩10分
五山第一位、北条氏崇敬の大寺院
3
鶴岡八幡宮
徒歩20分
幕府の総鎮守、実朝暗殺の舞台
4
宝戒寺
徒歩5分
北条一族の菩提寺、幕府滅亡後創建
5
頼朝の墓(白旗神社)
徒歩15分
幕府創設者の墓、歴史の始点と終点
このコースを辿ることで、1185年(または1192年)の幕府創設から1333年の滅亡まで、150年の歴史の始点と終点を1日で体感できる。
よくある質問
鎌倉幕府が滅亡した東勝寺はどこにあるのか?
北条高時が自害した東勝寺は現在の鎌倉市小町3丁目付近にあったとされるが、建物は残っておらず「東勝寺橋」という橋名と案内板のみが存在する。付近の「腹切りやぐら」と呼ばれる岩窟が北条一族自害の地と伝わり、現在も参拝・見学ができる。鶴岡八幡宮から徒歩約15分。
稲村ヶ崎の奇跡とは何か?
新田義貞が鎌倉を攻める際、三方を山に囲まれた鎌倉の防衛線を突破できず行き詰まった。そこで義貞が稲村ヶ崎(現在の鎌倉市稲村ガ崎)の海に金剣を奉じると潮が引き、軍勢が浜伝いに鎌倉へ突入できたという伝説。歴史的には大潮による干潮で岩場が露出した可能性が高いとされている。稲村ヶ崎は現在も公園として整備されており、江ノ島を望む景勝地となっている。
新田義貞のその後は?
1333年の鎌倉攻略後、新田義貞は後醍醐天皇の建武の新政で活躍したが、足利尊氏と対立。南北朝の争いの中で南朝方として戦い続け、1338年(延元3年)に越前国(現在の福井県)藤島で戦死した。享年39。鎌倉を陥落させた英雄は、わずか5年後に戦場で散る波乱の生涯だった。
建長寺と円覚寺はどちらが先に創建されたのか?
建長寺が1253年(建長5年)創建で先。円覚寺は1282年(弘安5年)創建で約30年後。建長寺が第5代執権・北条時頼の創建であるのに対し、円覚寺は第8代執権・北条時宗の創建で、元寇(1274年・1281年)の後に戦没者を弔う目的があった。どちらも北条氏の崇敬を受けた鎌倉五山の筆頭寺院で、北鎌倉で並んで参拝できる。
最終更新: 2026年5月20日
── 了 ──
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