永延2年(988年)創建の後、後白河上皇が保元の乱(1156年)を経て院政を開始し、この地に壮大な院御所「法住寺殿」を整備した。三十三間堂はその境内に含まれており、平重盛(平清盛の嫡男)の出資で長寛2年(1164年)に完成した。治承・寿永の内乱(1180–1185年)では法住寺殿が政治の中枢となったが、寿永2年(1183年)、入京した木曽義仲の軍勢が法住寺合戦において院御所を焼き打ちした。後白河法皇は難を逃れたが、御所の大半が焼失した。現在の法住寺は小規模な寺院として跡地に残り、後白河天皇陵を守護するとともに、身代わり不動信仰の場として地元の信仰を集めている。