JR熊本駅から路面電車約15分「花畑町」下車
熊本県熊本市中央区本丸
Google Map で開く ↗
慶長12年(1607年)に加藤清正が朝鮮出兵で磨いた築城技術の粋を集めて完成させた日本三大名城のひとつ。「武者返し」と呼ばれる反り返った石垣と「清正流」の石垣構築術は日本城郭史上最高傑作とも称される。西南戦争(1877年)では政府軍の拠点として籠城し難攻不落を実証した。2016年の熊本地震で天守・石垣が大きく被災したが復旧工事が進み、熊本復興のシンボルとして日本100名城・特別史跡として多くの市民と観光客に勇気を与えている。
天正16年(1588年)、肥後国人一揆の鎮圧後に肥後北半国を与えられた加藤清正が茶臼山に築城を本格化。慶長5年(1600年)頃に天守が完成し、慶長12年(1607年)に「隈本」から「熊本」に改称して城も現在名となった。清正は朝鮮出兵で培った経験をもとに、反り返った「武者返し」の石垣と、籠城に備えた約120基の井戸を城内に掘る独自の設計を施した。寛永9年(1632年)、加藤忠広の改易で細川忠利が肥後54万石に入封、以後明治維新まで細川家が約240年統治した。明治10年(1877年)の西南戦争では谷干城率いる鎮台兵が西郷軍に52日間包囲される籠城戦を耐え抜き、「清正公に負けた」と西郷に言わしめた。…
関連する歴史的事件
— 1
1876年(明治9年)10月24日、熊本で起きた国粋主義的士族による反乱。廃刀令に反対する旧熊本藩士の敬神党(神風連)約170名が、加屋霽堅・太田黒伴雄らを指揮として熊本鎮台(熊本城)と熊本県庁を夜間奇襲した。刀剣のみで武装した彼らは、銃器を使う政府軍の前に多くが戦死し、首謀者らは互いに助け合いながら自刃した。この反乱の特徴は、西洋文明・近代化を拒絶し純粋な精神力のみで戦おうとした尊攘的国粋主義にあった。外国の文物を忌み嫌うあまり、決起前には籤引きで神意を伺い、洋式の道具や電線には白紙を貼って目を塞いだという逸話が残る。仮に勝利しても現実的な展望のない蜂起は一日で終息したが、同年の秋月の乱・萩の乱に連鎖し、翌年の西南戦争の遠因となった。熊本城址に乱の関係者の墓碑が残る。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は明治24年(1891年)から明治27年(1894年)にかけて第五高等中学校(現・熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した。松江から転任した八雲は熊本の武家文化に触れ、熊本城の威容にも深い印象を受けた。熊本時代に日本文化への理解をさらに深め、後の文学活動の基盤を築いた。
細川忠興は慶長6年(1601年)、加藤清正の後に豊後・丹後を経て肥後54万石に入封し、熊本城を居城とした。熊本城下の整備・文化振興に努め、細川家は以後明治維新まで肥後藩の藩主として統治した。忠興の妻・ガラシャ(明智光秀の娘)との悲劇的な関係も有名で、戦国期の波乱を越えた文化人大名として知られる。
加藤清正は1601年から1607年にかけて熊本城を築いた。朝鮮出兵で培った築城技術を集大成し、「武者返し」と呼ばれる反り返った石垣は敵の登攀を不可能にした。難攻不落の名城として知られるこの城は、清正の軍事的才知と土木技術の粋を今に伝える。
📱
アプリでもっと便利に
GPS自動スタンプ・オフライン閲覧・推し活機能