神奈川県鎌倉市手広5-1-1に鎮座する手広地区の鎮守。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・事解男神(ことさかのおのかみ)・速玉男神(はやたまのおのかみ)の三柱で、紀伊国熊野三山の神格に連なる熊野信仰の神々を祀る。
創建年代は不詳ながら、江戸期には隣接する青蓮寺(鎖大師)の塔頭・寶積院が別当として管理運営を担い、本地仏として如意輪観音を祀った。寶積院の廃寺後は詳細な社歴が散逸したものの、社蔵の棟札によって慶安・万治・天明の三度にわたる社殿修営の記録が残る。修営を担った大岡氏は手広周辺の在地領主で、武家の篤い信仰がこの村社を護り続けてきた。
鎌倉の西縁に広がる手広は、市街地の喧噪から隔てられた静かな里山の佇まいを今も残す。例祭は1月28日で、煮立てた熱湯で神意を伺う湯立神楽が奉納される。江戸時代以来の武家・農家の祈りを今に伝える古社である。
手広地区における熊野神社の創建年代は不詳であるが、中世鎌倉における熊野信仰の隆盛を背景に相応の歴史を持つとみられる。源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代、紀伊国の熊野三山への信仰は武家社会に深く根付いており、鎌倉とその周辺には熊野の御分霊を勧請した社が複数設けられた(浄明寺の熊野神社・極楽寺の熊野新宮・逗子の山の根熊野神社など)。手広の地にも同様の熊野信仰が流入したと考えられる。
江戸期の文書として残る社蔵の棟札には、三度にわたる社殿修営が記録されている。慶安元年(1648年)には領主・大岡美濃守が修営を行った。万治元年(1658年)には領主・大岡隼人正忠高の玄母、年寄・和田氏らが修営を担った。天明…