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JR京都線「島本」駅から徒歩約10分、阪急京都線「水無瀬」駅から徒歩約10分
大阪府三島郡島本町広瀬3-10-24
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水無瀬神宮(みなせじんぐう)は大阪府三島郡島本町広瀬に鎮座する神宮号を持つ古社で、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇の三上皇を祀る。鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を造営し風雅な歌会を催した地で、承久の乱(1221年)で隠岐に流された後鳥羽上皇の御真筆「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」は国宝に指定される。境内に湧く「離宮の水」は環境省選定の名水百選に大阪府唯一として選ばれ、銘水を求めて名水ファンが訪れる。神仏霊場巡拝の道第59番。社殿は江戸時代の福島正則による寄進と伝わる「客殿」(重要文化財)など格調高い建築群を擁する。隠岐から都へ戻ることなく崩御した後鳥羽上皇への鎮魂の場として、和歌・芸能の道を志す人々の参拝が絶えない。
水無瀬神宮の起源は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が水無瀬離宮(水無瀬殿)を造営したことにさかのぼる。後鳥羽上皇はこの地に行幸し、藤原定家・寂蓮ら歌人を集めて『新古今和歌集』撰進などの和歌の風雅を楽しんだ。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒を期して挙兵したが(承久の乱)、北条義時率いる幕府軍に敗北し隠岐島に流された。延応元年(1239年)、上皇は隠岐で60年の生涯を閉じる。崩御後、上皇の遺志を継いだ近臣・藤原信成・親成父子が水無瀬離宮跡に御影堂を建立し菩提を弔ったのが当社の直接の起源とされる。後に土御門天皇・順徳天皇の二上皇も合祀された。神仏分離以前は「水無瀬御影堂」と呼ばれた仏教施設で…
後鳥羽上皇は鎌倉時代初期この地に水無瀬離宮を造営し、藤原定家・寂蓮ら歌人を集めて『新古今和歌集』撰進など和歌の風雅を楽しんだ。承久3年(1221年)の承久の乱で鎌倉幕府軍に敗れ隠岐に流された後も水無瀬への愛着は深く、隠岐で詠んだ「われこそは新島守よおきの海のあらき波風心して吹け」の句は孤独の心情を伝える。延応元年(1239年)に隠岐で崩御した後、近臣により水無瀬離宮跡に御影堂が建立され、当神宮の起源となった。
藤原定家(1162-1241)は後鳥羽上皇の和歌の師として水無瀬離宮の歌会に頻繁に招かれ、『新古今和歌集』撰者の一人として活躍した。後鳥羽上皇との関係は親密だったが、定家の和歌観は次第に上皇と齟齬をきたし、承久の乱の前後には疎遠となった。それでも水無瀬は中世和歌史における風雅の象徴的な場として、定家の歌論にも影響を与え続けた。
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