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大阪府大阪市中央区大阪城
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1614年(慶長19年)、徳川家康が豊臣秀頼の居城・大坂城(現在の大阪府大阪市)を攻囲した戦い。家康は方広寺鐘銘問題を口実に豊臣氏討伐を宣言し、20万を超える大軍で大坂城を包囲した。豊臣方は城外に真田丸(真田幸村が築いた出丸)を構え、これが徳川軍を悩ませた。激しい攻防の末、外堀を埋めることを条件に講和が成立した。しかし家康はその後内堀も埋めさせ、豊臣方の抵抗力を削ぐことに成功した。この和議は翌年の大坂夏の陣への布石であり、家康の策略の巧みさを示すものとして後世に語り継がれている。
慶長19年(1614年)10月、徳川家康は方広寺鐘銘問題を口実として豊臣氏討伐を宣言し、大坂冬の陣の火蓋が切られた。家康は20万を超える大軍を動員し、豊臣秀頼が守る大坂城を四方から包囲した。豊臣方は総勢約9万の兵力で籠城戦に臨み、真田信繁(幸村)が城の南方に出丸「真田丸」を築いて徳川軍の攻撃を再三撃退した。12月に入ると徳川方は大筒(大型火砲)による砲撃を城内に加え、心理的圧迫を強めた。激しい攻防が続いた末、同年12月に外堀を埋めることを条件とする和議(大坂講和)が成立した。しかし家康はその後、和議の条件を拡大解釈して内堀をも埋め立てさせ、大坂城の防御力を著しく低下させた。この措置は翌慶長20…
徳川家康が豊臣家滅亡を図った二段構えの大戦の前半。家康は方広寺鐘銘問題を口実に豊臣氏を追い詰め、大軍で大坂城を包囲した。講和条件として外堀を埋めさせ、続いて内堀も埋めさせることで城の防御力を無力化した。73歳の家康が直接陣頭指揮を執った最後の大規模軍事作戦のひとつ。
大坂冬の陣で真田幸村は大坂城南の要衝に出丸「真田丸」を構築し、徳川軍の猛攻を独力で撃退した。「日本一の兵(つわもの)」と称されたその奮戦は徳川方を震え上がらせ、講和の一因ともなった。
豊臣家の重臣として冬の陣に加わり、守城方の軍議に参与した。関ヶ原の戦いで既に斃れていたが、冬の陣は彼の遺志を継ぐ豊臣方の最後の抵抗として位置づけられる。
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