寛永6年(1629年)、出羽・陸奥の大名たちによって江戸城外郭の一門として築かれた見附で、警備は5千石から1万石の旗本・大名が担当した要害の地。門の名は近隣の御数寄屋坊主(茶道職)の屋敷に由来し、「数寄屋町」「数寄屋橋」の地名もここから生まれた。宝暦4年(1754年)以後、門内北側には町奉行・大岡忠相らが大岡裁きを下した南町奉行所が置かれ、江戸の司法の中枢として機能した。明治6年(1873年)の廃城処分で取り壊されたが、「数寄屋橋」の名は銀座と有楽町を結ぶ東京の繁華の要衝として今に残り、数寄屋橋公園には「数寄屋橋の碑」が立つ。同門跡は「有楽町」の地名形成にも関わる江戸〜現代を貫く歴史の結節点。