江戸時代初期、徳川家康に仕えた朱子学者・林羅山(1583-1657)により朱子学が幕府の官学として定着した。羅山は京都五山の相国寺で学んだ後、22歳で藤原惺窩の推薦により家康に謁見(1605年)、以後四代の将軍(家康・秀忠・家光・家綱)に仕えた。1630年には上野忍岡に家塾を開き、これが後の昌平坂学問所(1797年・現湯島聖堂)の起源となる。朱子学の「大義名分論」(君臣の別・上下の秩序)は幕藩体制を正当化するイデオロギーとして重用され、羅山は武家諸法度(1615年)・禁中並公家諸法度(1615年)の起草にも参画。以後、林家は代々大学頭として幕府儒官の地位を世襲した。羅山の学統は山崎闇斎(垂加神道)・木下順庵(新井白石・雨森芳洲の師)を経て、江戸思想界の主流を形成。「三網五常」の倫理は武士階級のみならず庶民道徳にも深く浸透し、近代以降の日本人の道徳観の基盤となった。