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持統天皇と藤原京——日本初の本格都城を築いた女帝の決断と万葉の歌
持統天皇は夫・天武天皇を支えて壬申の乱を乗り越え、694年に日本初の本格的な中国式都城「藤原京」への遷都を実現しました。碁盤目状の整然とした都市計画は、後の平城京・平安京の原型となりました。「春すぎて夏来にけらし」の万葉歌でも知られる女帝の知られざる政治力と、飛鳥・奈良の参拝スポットを通して持統天皇の生涯を辿ります。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
持統天皇とは誰か——天智の娘から天武の皇后へ
藤原京の建設——日本初の本格都城
万葉集の女帝——文化的な貢献
持統天皇ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
持統天皇(勝川春章画)——藤原京への遷都を実現し律令国家の基礎を完成させた第41代女帝
Wikimedia Commons / Public Domain
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」——百人一首の2番目に収録されたこの名歌の作者は、**持統天皇(じとうてんのう)**です。女帝でありながら、夫・天武天皇を支え、日本初の本格的な律令国家の基盤を固め、694年には日本史上初めての本格都城「藤原京(ふじわらきょう)」を完成させた偉大な政治家でした。
持統天皇とは誰か——天智の娘から天武の皇后へ
生い立ちと壬申の乱(672年)
持統天皇は645年生まれ、父は天智天皇(中大兄皇子)、夫は**天武天皇(大海人皇子)**という、飛鳥時代の二大改革者に直接つながる人物です。天智天皇の娘として生まれ、13歳のとき叔父にあたる大海人皇子(後の天武天皇)と結婚しました。
672年、天智天皇の崩御後に起きた皇位継承をめぐる内乱「壬申の乱(じんしんのらん)」では、持統天皇(当時・鸕野讚良皇女〈うののさらら〉)は夫・大海人皇子とともに大和を脱出して吉野に逃れ、その後の戦いを陰から支えました。壬申の乱で大海人皇子が勝利し天武天皇として即位すると、持統天皇は皇后として強力な補佐役を務めることになります。
出来事
645年
持統天皇(鸕野讚良皇女)誕生
672年
壬申の乱——夫・大海人皇子を支え勝利
686年
天武天皇崩御。称制を開始(実質的な統治)
690年
第41代天皇として正式即位
694年
藤原京への遷都を実現
697年
孫・文武天皇に譲位
703年
崩御(57歳)。初の火葬天皇の一人
天武天皇崩御後の「実質的な天皇」
686年に天武天皇が崩御すると、持統天皇は「称制(しょうせい)」——すなわち正式な即位なしに天皇の権限を行使する——という形で政治を主導しました。690年に正式に第41代天皇として即位し、天武天皇が着手した日本書紀・古事記の編纂事業や律令整備を引き継ぎ、強力なリーダーシップで推進しました。
天武天皇——持統天皇の夫。壬申の乱で即位し律令国家の骨格を作った。崩御後は持統天皇が遺志を継いだ
Wikimedia Commons / Public Domain
藤原京の建設——日本初の本格都城
なぜ藤原京は画期的だったのか
694年に完成した**藤原京(ふじわらきょう)**は、現在の奈良県橿原市に位置し、中国・唐の都「長安」を模した日本初の本格的な条坊都市(じょうぼうとし)です。条坊都市とは、東西南北に碁盤目状に整備された街路によって都市区画を整然と配置した都市設計のことです。
項目
飛鳥時代の宮
藤原京
規模
宮殿を中心とした小規模
東西約5.3km・南北約4.8kmの大規模都市
計画性
不定形・随時拡張
碁盤目状の計画都市
存続期間
数代で移転
694〜710年(約16年)
モデル
なし
唐の都・長安
後継都市
平城京(710年)・平安京(794年)
藤原京は東西3.2km・南北2.1kmにわたる内京(ないきょう)と、その周囲に広がる大外京から構成される巨大な計画都市でした。中央には「大極殿(だいごくでん)」と「朝堂院(ちょうどういん)」を中心とする宮城が置かれ、官僚機構・市場・寺院が計画的に配置されました。
薬師寺(奈良市西ノ京)——天武天皇が持統天皇の病気平癒を祈願して発願した白鳳時代の名刹。世界遺産
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
藤原京の遺産
藤原京は持統・文武・元明の3代の天皇が都を置いた後、710年に平城京(へいじょうきょう)(奈良)へと遷都されました。しかしその都市設計の思想は、平城京・平安京(794年)へと受け継がれ、「条坊制」という都市計画の基本原理として日本の都市形成に深く根付いていきます。
現在の奈良県橿原市に広がる飛鳥宮跡周辺には、藤原京の区画を示す史跡や発掘調査の成果が残っています。また、持統天皇が建立を支援した薬師寺(やくしじ)(奈良市)は、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、持統天皇の代に飛鳥に創建された後、平城京遷都に伴って現在地(西ノ京)へ移転した名刹です。
飛鳥寺——持統天皇・天武天皇の時代と重なる飛鳥時代の宗教文化の中心地
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
万葉集の女帝——文化的な貢献
「春すぎて」の歌の意味
持統天皇が詠んだ「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」は、万葉集(巻1)に収録され、後に百人一首の第2番としても知られる名歌です。大和三山の一つ「天の香具山(あめのかぐやま)」に白い衣が干されているのを見て、夏の訪れを感じるというシンプルな情景を詠んだものです。
女帝が政治の第一線にいながら、自然の移ろいを鋭敏に感じ取った歌として、万葉集研究者から高く評価されています。この歌から、持統天皇が藤原京の宮から天の香具山を眺めていたことも読み取れます。
律令文化の普及
持統天皇の時代は、天武天皇が発願した『日本書紀』『古事記』の編纂が本格化した時期でもあります。これらは日本語の最初の本格的な歴史書・神話集であり、日本の歴史・文化・国家アイデンティティの形成に計り知れない影響を与えました。また律令(刑法・行政法の法典)の整備も進み、701年の大宝律令制定へとつながっていきます。
持統天皇ゆかりの地を訪ねよう
薬師寺(奈良)(奈良県奈良市)——天武天皇が持統天皇の病気平癒を祈願して発願した白鳳の名刹。東塔は現在も創建当時の姿を残す。
飛鳥寺(奈良県明日香村)——飛鳥時代の宗教文化の中心地。持統天皇・天武天皇の時代と重なる飛鳥の聖地。
飛鳥宮跡(奈良県明日香村)——藤原京造営前に歴代天皇の宮殿が置かれた飛鳥宮の跡地。
父・天智天皇(中大兄皇子)の大化の改新から始まり、夫・天武天皇の律令整備、そして持統天皇の藤原京造営へと続く流れは、古代日本国家形成の三世代にわたる壮大なドラマです。飛鳥・橿原エリアを旅することで、この歴史の流れを体感することができます。
石舞台古墳(飛鳥)——蘇我馬子の墓とも伝わる巨石古墳。持統天皇・天武天皇が活躍した飛鳥時代の象徴的遺跡
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
よくある質問
持統天皇はなぜ女帝になれたのですか?
古代日本では、皇統の正統性と政治的実力を持つ女性が天皇に即位する例が複数あります(推古天皇・皇極天皇・持統天皇など)。持統天皇の場合、天武天皇の崩御後に後継の皇太子(草壁皇子)が早世したことで、孫の文武天皇が成人するまでの間、実力・経験ともに最も優れた存在として即位しました。父・天智天皇の娘でもあり、皇統上の正統性も備えていました。
藤原京はなぜ短期間(16年)で廃都になったのですか?
諸説ありますが、大きく2つの理由が挙げられます。一つは元明天皇の時代(710年)に平城京へ遷都する政治的決断がなされたこと、もう一つは藤原京の規模が急増する貴族・官僚人口に対応しきれなかった可能性があること。平城京はさらに大規模に整備されており、藤原京の都市計画の経験を生かした発展形と言えます。
薬師寺はどうやって行けますか?
近鉄橿原線「西ノ京駅」下車すぐです。唐招提寺と隣接しており、合わせて参拝するコースがおすすめです。東塔(奈良時代創建)と西塔(昭和再建)のバランスが美しく、「凍れる音楽」とも称される白鳳建築の傑作です。
最終更新日:2026年6月3日
── 了 ──
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