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身一つで内乱に勝った!天武天皇と壬申の乱の真実
672年の壬申の乱は、後に「天武天皇」となる大海人皇子が甥・大友皇子と戦った古代最大の内乱。出家した身で吉野から逃げ、わずかな兵から始まって最終的に勝利した大海人皇子の逆転劇を解説する。この内乱が日本という国の形を作った。
深く読み解く一冊
目次
MOKUJI
事件の背景
吉野から立ち上がる
壬申の乱が日本を変えた
ゆかりの地を訪ねよう
よくある質問
法隆寺(奈良)——飛鳥時代を代表する世界遺産。天武天皇が整備した律令国家の精神的基盤となった仏教文化の象徴
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
「負け確定」と思われていた人物が大逆転した——これが672年の壬申の乱(じんしんのらん)です。
主人公は大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇です。
事件の背景
672年、当時の最高権力者だった天智天皇(大海人皇子の兄)が亡くなりました。後継者争いが始まります。
候補は二人。天智天皇の息子・**大友皇子(おおとものみこ)**と、天智天皇の弟・大海人皇子です。
大友皇子は近江京(現・滋賀県大津市)に本拠を持ち、朝廷の実権を握っていました。一方の大海人皇子は危険を感じ、出家して吉野(現・奈良県)の山中に退いていました。
「大友皇子の勝ちは確定だ」と多くの人は思っていました。
吉野から立ち上がる
古代天皇のイメージ——天武天皇は「天皇」という号を定式化し、日本の皇室制度の基礎を固めた
Wikimedia Commons / Public Domain
しかし大海人皇子は動きました。672年6月、吉野山から密かに東へ向かって脱出します。
途中、各地の豪族(有力な地方の指導者)たちが次々と大海人皇子の軍に合流しました。東海道・北陸道の豪族たちが大海人皇子を支持したのです。
「勝てる側につきたい」という計算だけでなく、「旧来の朝廷の権力(大友皇子側)に反発していた」人々が大海人皇子を支持したとも言われます。
壬申の乱の勝敗を分けたもの
わずか1か月で決着がつきました。大友皇子は自害し、大海人皇子が勝利しました。
勝敗を分けた要因として挙げられるのは:
1.
東国(東日本)の有力豪族の支持を得た
2.
決断の速さと行動力
3.
大友皇子側の内部対立
壬申の乱が日本を変えた
法隆寺(奈良)——天武天皇が完成に近づけた飛鳥仏教建築の至宝。壬申の乱後の平和と国家建設の時代を象徴する
Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
天武天皇として即位した大海人皇子は、日本を根本から作り変えました。
「天皇」号の使用定式化: それまでは「大王(おおきみ)」と呼ばれていた存在を「天皇」と呼ぶようになった
律令制度の整備: 唐(中国)の制度を参考にした法律・官僚制度を整備
古事記・日本書紀の編纂命令: 日本の歴史を文字で記録する事業を始めた
「日本という国の名前も、天皇という呼び方も、この時代に整った」と言われるほど、天武天皇の時代は日本史の転換点でした。
ゆかりの地を訪ねよう
天武天皇ゆかりの地は奈良県飛鳥地方に集中しています。飛鳥京跡は天武天皇が宮廷を置いた場所で、現在も史跡として整備されています。
また、飛鳥時代を代表する寺院法隆寺(奈良県斑鳩町)は天武天皇の時代と深く関わる世界遺産です。
天武天皇のゆかりの地一覧から、飛鳥巡礼コースを組んでみてください。
よくある質問
壬申の乱はなぜ「壬申」というの?
「壬申」は672年の干支(えと)の読み方です。日本の古代では年号ではなく干支で年を表すことがあり、672年が壬申の年だったため「壬申の乱」と呼ばれます。
大友皇子はその後どうなったの?
自害しました。後世、弘文天皇(こうぶんてんのう)という天皇号を贈られました(江戸時代に追号)。
天武天皇と聖徳太子はどういう関係?
聖徳太子(574-622年)は天武天皇(?-686年)の一世代前の人物です。聖徳太子が冠位十二階・十七条憲法などで国家の基礎を作り、天武天皇がそれをさらに発展させて「日本」という律令国家を完成に近づけました。
最終更新日:2026年6月2日
── 了 ──
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